福岡城

皇武

  1600年に黒田如水・長政父子が7年の歳月をかけて
筑前・博多の西にある福崎丘陵の一部を開削し築城された。
縄張は築城家・如水による姫路城・大坂城・
名護屋城で培った大型城郭をモデルに
商都・博多を取り込める程の広大な惣構えの巨城である。
東に御笠川と那珂川の博多を挟む両川による防衛線。
北と西に博多湾とその汐入湖(現在の大濠公園)。
南の福崎丘陵は築城部以外での取水難で、
軍勢の布陣は不可能(この為、丘陵全体の城郭化を避けた)。
城郭の特徴は石材を大量に使い(石材の確保先は立花山城、
名島城、名護屋城、
建設地にあった石=古代・鴻櫨館の礎石)、
高石垣と防衛拠点となる櫓群を多数配置したもので、
一見した加藤清正は実用的で優れたものと賞賛している。
命名は黒田家の故地・備前福岡よる。
別名に舞鶴城の異名をもつが、
天守閣が建設はされなかった様である。
この築城期間中に隣国・豊前細川家と不和状況にあり、
国境沿いの支城群の建設を急いだ為と思われる。
また、築城現場の責任者・普請奉行の野口一成は
石積み名人と呼ばれるようになり、
熊本城築城の応援にも行っている。
この城の北東・鬼門の方角に大宰府天満宮の分社を奉り、
重臣・母里太兵衛が屋敷を構えた地が、
現在福岡市の中心地・天神である。
さらに那珂川の中洲の護岸によってできた土地が、
後の歓楽街・中洲となっている。
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