[327] no title 投稿者:松下 加兵衛 投稿日:2003/02/28(Fri) 00:57:40

最近史記(漫画)をよんだのですが、確か7巻辺りに秦の政にうらみをもった燕の皇太子がケイカ(字がわからん)に暗殺をたのむんですけどそのとき、ある人物をまっているといってしぶるんですが秦の侵攻もあり、ことをはやめ失敗に終わるんですが。その人物はだれだとおもいますか?


[327へのレス] 投稿者:松下 加兵衛 投稿日:2003/02/28(Fri) 00:58:12

抽象的ですみません


[327へのレス] 投稿者:越後縮緬問屋 投稿日:2003/03/01(Sat) 20:03:24

知己の誰々じゃないか、いや暗殺ならあいつだ…と、様々な説が有りますが、よくわかっていません。元の史記の記述(待ち人来ず…)自体が架空の設定かもしれませんね。


[327へのレス] 投稿者:斎藤道三 投稿日:2003/03/08(Sat) 22:04:10

嘘ついたんでしょう。たぶん。暗殺に行くのが怖くなったのかもしれません。


[327へのレス] 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2003/03/09(Sun) 15:41:58

荊可(かの字は車へんに可なのだがパソコンでは出なかったのでご容赦)が誰を待っていたかについては史記・刺客列伝にも載っていない為わかりません、いあだこの件にかんしては色々な小説家の想像力を刺激してきたようで、たとえば陳舜臣先生の短編集中国任侠伝の中の一編「荊可、一片の心」の中では荊可の旧友で飛び道具の名人の辛朔(むろん陳先生の創作の人物で実在の人物ではない)という事になっています。ちなみに始皇帝を殺そうとした人物は荊可以外にも二人います、一人は荊可の友人で筑の名手の高漸離でありもう一人は韓の宰相の子であり、後に漢の高祖劉邦の参謀となる張良(字は子房)です。
斎藤殿、もし荊可がそのような人間であれば田光は彼を推挙しなかったし、荊可にしても他の国に逃げるなりなんなりして禍を避けることが」できたでしょう、自分の常識に他人をあてはめて他人を貶すような真似はおやめなさい、荊可にすれば事を万全に進めるために青二才の秦舞陽ではなく信頼のおける相棒を選ぼうとしたのでしょう、現に秦舞陽は始皇帝の前でしくじります。ちなみにあなたと同じ疑いを持った人がいました、それはだれあろう、この件の依頼者である燕の太子、姫丹その人だったのです、なんと器の小さい事か!荊可は命をかけているというのにそれを信じてやれないとは、荊可が哀れというほかありません


[327へのレス] 投稿者:越後縮緬問屋 投稿日:2003/03/10(Mon) 20:45:39

荊軻←これかな?


[327へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2003/03/12(Wed) 23:25:35

坂本竜馬氏の言う高漸離が、荊軻の待っていた友人という説もあります。理由としては、もし、自分が外しても高漸離が筑を投げ二重に殺す手段を準備していたということでした。
そして、斎藤道三氏の意見に対する反論としては坂本氏に同義です。嘘つくくらいなら最初から受けなきゃいいし、暗殺を怖がるような人間の名が国中に広まるとは考えにくいです。

http://jadaran.fc2web.com/


[327へのレス] 投稿者:藤原 投稿日:2003/03/14(Fri) 06:46:28

ていうか、筑の名手の高漸離を待っていたっていうのは漫画に書いてあったはずなんですが・・。それを質問するという事は見落としですか?


[327へのレス] 投稿者:斎藤道三 投稿日:2003/03/14(Fri) 22:01:11

たしかにそうかもしれません。坂本竜馬殿申し訳ござらん。
ただ、自分の常識に当てはめたわけではなく、自分の意見をのべただけであってそのところは理解していただきたい。


[326] no title 投稿者:松下 加兵衛 投稿日:2003/02/28(Fri) 00:46:01

はじめまして。よろしくおねがいします


[326へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2003/02/28(Fri) 19:31:29

上杉弾正少弼謙信です。よろしくお願い致します。


[325] 初めまして。 投稿者:秋山光朝 投稿日:2003/02/24(Mon) 17:34:12

どなたか、「秋山家」について詳しくご存じの方はいらっしゃいませんか?是非情報をお寄せください。


[325へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2003/02/28(Fri) 19:30:53

秋山家とはあの日清日露戦争物語に出ている秋山淳五郎についてですか?


[325へのレス] 投稿者:越後縮緬問屋 投稿日:2003/03/01(Sat) 19:40:43

秋山光朝と名前にありますから、秋山光朝が開祖の甲斐秋山氏のことなんでしょう。秋山信友・信藤とかの。


[325へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2003/03/02(Sun) 07:55:44

そちらの秋山家ですか。


[325へのレス] 投稿者:秋山光朝 投稿日:2003/03/07(Fri) 21:17:16

Yes!


[325へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2003/03/09(Sun) 23:01:17

う〜ん。後日しらべさせていただきます。


[324] 武田信廉について 投稿者:後水尾帝 投稿日:2003/02/15(Sat) 00:22:15

おひさしぶりです。今回は皆さんにお伺いしたいことがあって書きこみをさせていただきました。
 というのは、武田逍遥軒信廉公についてです。彼が典厩信繁公亡き後、一門筆頭として活躍したことはあまりに有名ですが、それと同様に有名だったのは彼の画才です。
 そこで、彼が描いた絵というのは今でも残っているのでしょうか?また、残っているとしたらどこにあるのか、教えてください。


[324へのレス] 投稿者:春弾 投稿日:2003/02/22(Sat) 13:02:45

はじめまして。はじめて書き込ませていただきます。
よろしくお願いします。
さて、ご質問の件ですが、武田逍遥軒信廉公の描かれた絵は父親・信虎
(甲府・大泉寺)、母親・大井夫人(甲府・長禅寺)、兄・信玄公(塩山・恵林寺)を描いたものなど残っています。ここに行けば見れるかどうかはわかりませんが、武田関連書籍などで紹介されていますので、ご覧になってはいかがでしょうか。
特に前二つの絵は重要文化財にも指定されているようです。信廉公のすばらしい画才を裏付けているのではないでしょうか。
では、失礼いたしました。


[324へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2003/03/07(Fri) 22:58:59

ありがとうございました


[321] オフ会について 投稿者:徳川家康 投稿日:2003/01/18(Sat) 12:47:18

皆様、いつも江戸幕府にご協力くださいまして、
本当にありがとうございます。

江戸幕府では、3月下旬にオフ会を行う予定です。
そのため、以下のアドレスで
そのオフ会についてのアンケートを実施中です。
http://ume.sakura.ne.jp/~edo/offas.html
興味があるかたや、参加したい方は、
必ずお答えください。

今後ともよろしくお願いいたします。


[321へのレス] 投稿者:徳川家康 投稿日:2003/01/20(Mon) 21:20:57

オフ会の日程は、もう少し幅広くしようと思いますので、
アンケートへお答えになるのは、もうしばらくお待ちください。
ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。


[321へのレス] 投稿者:徳川家康 投稿日:2003/01/20(Mon) 21:38:14

アンケートの修正は終了しました。オフ会は3月または、4月上旬に行うことになりました。皆様アンケートへのご協力をお願いいたします。


[320] 川之内衆 投稿者:yoxtusi- 投稿日:2003/01/16(Thu) 20:14:28

川之内衆について教えていたきたいのですが。
安芸武田氏に仕えていた水軍としかわかりません。
どういった集団なのか?どなたかご教授お願いします。


[320へのレス] 投稿者:陸奥守元就 投稿日:2003/02/12(Wed) 15:10:37

初めまして、日光山殿に紹介されて来ました、陸奥守元就と申します。以後お見知りおきを。

川之内衆は正式には川之内警固衆、佐東衆と呼ばれています。
この川之内衆の活躍は武田氏に仕えていた時よりも、毛利氏に仕えた時の方が有名です。

毛利元就が大内配下にいるとき、武田氏を滅亡させ、大内義隆から佐東郡千貫の恩賞を貰いました。瀬戸内海に面していたことから元就は水軍の育成を試み家臣の児玉就方、飯田義武に水軍の育成を任せました。新たに水軍を作る時間がないため児玉らは旧武田氏家臣の山県氏、福井氏を毛利水軍に取り組みました。それが川之内警固衆です。

主に仕事は瀬戸内海を通航する船の警固とその警固料の徴収です。(だから警固衆)あの有名な厳島の戦いでは毛利水軍の中心となって戦いました。また、毛利氏の直属水軍(毛利氏から直接命令を受けること)なので1番信頼のできる水軍だとも言えます。

一通り説明しましたが他に何か聞きたいことがあればお聞きください。分かる範囲でなら説明します。


[319] no title 投稿者:信長 投稿日:2003/01/15(Wed) 01:45:39

ボアソナードの旧民法典が施行されていたならば、その後の日本の歴史はどのような経緯を たどってきたであろうか。

  


[318] 皆さんは? 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2003/01/12(Sun) 21:55:42

皆さんが、もし戦国時代に武将として産まれてどこかの大名に仕官するとしたらどこの大名に仕官したいですか?
またその理由も教えて下さい!

http://hamanasu.sakura.ne.jp/~edo/echigo/index.html


[318へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2003/01/13(Mon) 16:25:27

単にアンケートだけなら、以前にも似たような物が出てましたし、投票コーナーがある以上、歴史討論用掲示板でやる必要は無いように思いますが。
回答者の出身・在住地域や年代によって理想・展望や勢力が変わる等、その辺りを考察する…というように、意味が有る物にした方がいいんじゃないすかね。…サンプル数が少なすぎますが。


[317] 加納随天 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2003/01/12(Sun) 14:24:32

上杉三郎景虎です。
質問させていただきます。
この間、3日に大河ドラマ「信長」の総集編があり、録画して懐かしさに浸りながら見ていました。そこで、信秀・信長の側近く仕え、本能寺で華々しく散る、平幹二郎さん演じる「加納随天」(漢字あってますか? なんか占い師っぽい人です。)というのは一体何者なのでしょうか?
どなたか是非教えてください。m(__)m


[317へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2003/01/13(Mon) 09:58:00

たしか実在しない架空の人物だったような・・・

http://jadaran.fc2web.com/


[317へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2003/01/14(Tue) 00:21:41

敢えて実在しない人物を取り入れたそうです。
どうせなら、稲葉山を岐阜と改めた際に助言したとかいう坊さんの方がよろしいかと思うのですが。


[317へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2003/01/24(Fri) 00:35:45

なるほど、架空の人物だったのですね。やけにインパクトがあったのですごく気になっていましたので(^_^;)
RON殿、光源院義輝殿、どうもありがとうございますm(__)m


[316] 真田幸村 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/09(Thu) 20:48:00

どうも宇喜多八郎です。
また質問します。
真田幸村は本当の名は真田信繁であるとは知っているのですがどうして幸村になったのでしょうか?
またもし生きてるうちから真田幸村と呼ばれていたのなら何時から幸村となったのでしょうか?
教えてください。


[316へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2003/01/10(Fri) 00:49:36

お邪魔いたす。素朴な疑問、でも結構大事かと。
それがしは、どの武将も名前にその当時の状況など物凄い意味を持ってると思ってる者です。
源次郎信繁。元服時に兄と揃って『信』の字を使ってる。
勝手に名乗れたのではなく、主家・武田家から許されたものだと言うじゃない。
兄貴は解る、真田の嫡子だし。だが二男まで武田一門待遇に相当する名を頂くなんてねえ。信繁自身の将器を見込んでというよりも真田2代のこれまでの働きと、ジリ貧武田家を昌幸に支えてもらいたい期待を込めてのものと察します。
偉い人から一字を賜るってかなりの地位向上。逆にその字を捨てるとなると恩知らず、裏切り者とそしられ両者は決別関係になる。
(今川家にとっての家康、六角家にとっての浅井長政など)
んでこのケースでは、兄弟が決別。
『徳川の世に忠実に生きる真田家』と『乱世を生きる危なっかしい真田家』へと。
代々の字を『信』の字に改め『幸』の字を捨てた兄。一方、父祖以来使い続けた『幸』に復した弟。喧嘩別れなどでは決してなく、それぞれの役目に徹した決断だと、それがしは勝手に考え申した。
よって時期的には大阪の陣の直前頃かと。
長くなり申した、御免。


[316へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2003/01/11(Sat) 00:58:18

私のお話ですな
私が聞いたところによると、本当はどちらかわからないらしいです。
ただ、元服当時に信繁という名前を使ったということは確かだと聞いています。
では、なぜ幸村という名前が出現したかというと、大坂冬の陣が終わり、形の上で徳川と豊臣が和睦していた際、信繁が信州上田の姉に送った手紙に幸村と書いてあるんです。
それで幸村という名前が浮上してきたのです


[316へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/11(Sat) 12:38:36

いろいろ教えてきただきありがとうございます。
確かの移り変わり見るとその人の人間模様の一端を想像できますね。
上杉謙信なんてその典型ですし。
そう言えば出家大名の武田信玄、上杉謙信、大友宗麟なのど信玄、謙信、宗麟の名前の由来を知っている人はいませんか?
できればまた教えて欲しいのですが。
お願いします。


[316へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/11(Sat) 12:40:24

確かに名前の移り変わりを見ると、です・・・
また間違えた・・・(汗)


[316へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2003/01/17(Fri) 12:08:01

海音寺潮五郎の「武将列伝」5巻「真田昌幸」の末尾に幸村という名前は信用すべき文献には全然出てこない。信繁である。と、あります。
源二郎殿の話は本当だとすると、残っている事になる。
う〜ん、わからん、徳川家に気兼ねしたか、講談から生まれたか。


[314] 申し訳ありません!! 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:41:43

ホントに申し訳ありません!!!
書きこの容量がでかくて調子が悪いようです。
309番と311番のレスはバグっているみたいなので飛ばして
読んで下さい。ホントに申し訳ありませんでした。
では失礼致します。


[314へのレス] 投稿者:徳川家康 投稿日:2003/01/07(Tue) 20:52:14

この掲示板に多い文字数を書き込むのは不可能というわけではないようです。もう一度書き込んでみてはいかがでしょうか?
そうしたらうまく行くかもしれません。また、使うブラウザを変えてみるという手もあるかもしれません。
削除キーを設定しておけば、もしきちんと表示されなくてもすぐに消すことができます。


[313] 皆さんの旗印は?その2 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:38:25

訳すと、「戦争は、しょせん、だまし合いである。
たとえば、できるのにできないふりをし、必要なのに不必要と
見せかける。遠ざかると見せかけて近づき、近づくと見せかけて
遠ざかる。有利と思わせて誘い出し、混乱させて突き崩す。
充実している敵には退いて備えを固め、強力な敵に対しては戦いを
避ける。わざと挑発して消耗させ、低姿勢に出て油断を誘う。
休養十分な敵は奔命に疲れさせ、団結している敵は離間を計る。
敵の手薄につけこみ、敵の意表を突く。
これが勝利を収める秘訣である。これは、あらかじめこうだと決めてかかることはできず、たえず臨機応変の運用を心がけなければならない。」となります。
もし皆さんも自分なりの旗印にしたいとすればどういった言葉を
いんようするでしょうか。別に兵法書の文でなくても、結構です。
漢字一文字とかでも。また今回ボクが引用した文の良い略し方があれば、ぜひ、考えてみてください。
一応僕なりに考えたのは最初の出だしの「兵ハ危道ナリ」
と言う部分を掲げておこうと思います。原文では「兵者危道也」
となるので、原文のほうを掲げておきます。
では、失礼致します。


[312] 皆さんの旗印は? 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:36:20

ところで、もし皆さんも戦国時代の武将だったら、「孫子」のみならず、他の兵法書からでもいいので、どういった下りの文を
旗印として引用しますか。
ちなみに、ボクは「孫子」の第一篇、「始計篇」にある、
「兵ハ危道ナリ。故ニ能ナルモコレニ不能ヲ示シ、用ナルモコレニ
不用ヲ示シ、近クトモコレニ遠キヲ示シ、遠クトモコレニ近キヲ
示シ、利ニシテコレヲ誘イ、乱ニシテコレヲ取リ、実ニシテコレニ
備エ、強ニシテコレヲ避ケ、怒ニシテコレヲ乱シ、卑ニシテコレヲ
驕ラセ、伍ニシテコレヲ労シ、親ニシテコレヲ離ス。ソノ無備ヲ攻メ、ソノ不意ニ出ヅ。コレ兵家ノ勝ニシテ、先ニハ伝ウベカラザルナリ。」と言う、下りです。


[311] 皆さんの旗印は? 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:35:27

ところで、もし皆さんも戦国時代の武将だったら、「孫子」のみならず、他の兵法書からでもいいので、どういった下りの文を
旗印として引用しますか。
ちなみに、ボクは「孫子」の第一篇、「始計篇」にある、
「兵ハ危道ナリ。故ニ能ナルモコレニ不能ヲ示シ、用ナルモコレニ
不用ヲ示シ、近クトモコレニ遠キヲ示シ、遠クトモコレニ近キヲ
示シ、利ニシテコレヲ誘イ、乱ニシテコレヲ取リ、実ニシテコレニ
備エ、強ニシテコレヲ避ケ、怒ニシテコレヲ乱シ、卑ニシテコレヲ
驕ラセ、伍ニシテコレヲ労シ、親ニシテコレヲ離ス。ソノ無備ヲ攻メ、ソノ不意ニ出ヅ。コレ兵家ノ勝ニシテ、先ニハ伝ウベカラザルナリ。」と言う、下りです。

訳すと、「戦争は、しょせん、だまし合いである。
たとえば、できるのにできないふりをし、必要なのに不必要と
見せかける。遠ざかると見せかけて近づき、近づくと見せかけて
遠ざかる。有利と思わせて誘い出し、混乱させて突き崩す。
充実している敵には退%


[310] お久し振りです!!! 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:33:14

どうもです!!!皆さん、明けましておめでとうございます。
と言っても、もう僕の事をお忘れになっている方が大半だと
思いますので、自己紹介しておきます。
えっと、去年、此処に来させてもらった時はHNは鍋島直茂と
名乗っており、その後上杉謙信と改名いたしましたが、今回
また、いきなり毘沙門天と改名して現れたので、全然分からなかった事と思います。申し訳ありません。
ところで、皆さんに質問ですが、最近、兵法書の「孫子」
を買ったのですが、いやあ、じつにためになる本でして、
あの信玄も座右の銘にして「風林火山」を旗印にしたぐらいですから。


[309] お久し振りです!!! 投稿者:毘沙門天 投稿日:2003/01/07(Tue) 18:29:42

どうもです!!!皆さん、明けましておめでとうございます。
と言っても、もう僕の事をお忘れになっている方が大半だと
思いますので、自己紹介しておきます。
えっと、去年、此処に来させてもらった時はHNは鍋島直茂と
名乗っており、その後上杉謙信と改名いたしましたが、今回
また、いきなり毘沙門天と改名して現れたので、全然分からなかった事と思います。申し訳ありません。
ところで、皆さんに質問ですが、最近、兵法書の「孫子」
を買ったのですが、いやあ、じつにためになる本でして、
あの信玄も座右の銘にして「風林火山」を旗印にしたぐらいですから。
ところで、もし皆さんも戦国時代の武将だったら、「孫子」のみならず、他の兵法書からでもいいので、どういった下りの文を
旗印として引用しますか。
ちなみに、ボクは「孫子」の第一篇、「始計篇」にある、
「兵ハ危道ナリ。故ニ能ナルモコレニ不能ヲ示シ、用ナルモコレニ
不用ヲ示シ、%D


[308] 平重盛 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/05(Sun) 19:36:39

江戸幕府ネタではないのですが、平清盛の長男平重盛は清盛の正妻時子の息子ではありませんね。
(ネットで調べたら重盛の母は高階基章の女)
だったらなぜ重盛は清盛の嫡男になれたのでしょうか?

情報のソースはここ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00014.htm


[307] 最高の主君 投稿者:毛利高政 投稿日:2003/01/03(Fri) 23:34:21

日本を治めるのに最高の主君は誰でしょうか?


[307へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2003/01/05(Sun) 00:43:09

中曽根康弘

http://jadaran.fc2web.com/


[307へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2003/01/05(Sun) 00:51:35

主君たるもの「君臨すれども統治せず」が鉄則です。
しかしあえて出すとすれば、故人では先の帝である昭和天皇ですね。
彼の人徳には歴史上初めて日本を占領したアメリカのD・マッカーサーも引き込まれたとか・・・。
 


[306] no title 投稿者:信長 投稿日:2002/12/28(Sat) 21:44:47

琉球の風ってなんですか?







[306へのレス] 投稿者:奥田 孫太夫 投稿日:2002/12/30(Mon) 12:58:26

昔あった大河ドラマで琉球を舞台にしたものだったと思いますが


[306へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2003/01/03(Fri) 01:24:20

平成5年1月〜6月までやってましたね。
大河初の半年もの。(この後は「炎立つ」「花の乱」)
江戸時代初期の薩摩に侵攻されて滅び行く琉球王国
を舞台に、誇り高き琉球人と薩摩、商人(茶屋四郎次郎)
らとの駆引きと戦いのドラマでしたね。


[305] 皆さんは? 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/12/25(Wed) 12:45:27

皆さんは、明智光秀の織田信長にいたする謀反をどのようにお考えでしょうか?
是非教えて下さい・

http://homepage3.nifty.com/hkume/


[305へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/12/26(Thu) 02:28:34

こんばんわ。
腐っても鯛というように堕落しきっていたとはいえ延暦寺は聖地です。そこを焼き討ちしたり、天皇を蔑ろにしたりと、信長は少し無茶が過ぎたのではないでしょうか。信長にも正義があったように光秀にも正義があったと思います。


[305へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/12/28(Sat) 20:59:40

ただ単に山陰地方の転勤が嫌だったから、光秀は謀反を起こしたのだ・・・(@_@)


[305へのレス] 投稿者:斎藤道三 投稿日:2002/12/29(Sun) 18:50:30

光秀は前に書かれたお二方の理由や母を見殺しにされたこと、安土城での突然の接待役免除と出陣命令...などが重なったもののようです。後水尾帝様の意見への反論(?)ですが信長の意識の中では天下万民が全て従ってなければならなかったのではないでしょうか。秀吉あたりは信長のそういうところを上手く使って出世したのかもしれません。


[305へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2003/01/02(Thu) 18:26:39

う〜ん、光秀の謀反の動機に対しては、江戸時代からたくさん説があります。
一番多いのは、怨恨説ですがあまり信憑性が少ないですね。
後世の創作が入っていますね、かなり。
とっとこハム太郎殿が書いた理由は、現在領有している丹波、近江を取り上げ出雲、石見を与えると言う事ですね。
このことについては、江戸元禄期に書かれた「明智軍記」にはこれを聞いた時、「光秀並びに家之子郎党等共、闇夜に迷う心地しけり」とある。
しかし、これはちょっとおかしい。
戦国武将は領地を貰う為戦っているのだから、その領地をお前が取ったらやるといわれたのだから、かえって張り切ったのでは。
後、光秀の母を殺された(義母または伯母説もあり)のも、原因と在るが、実際この母はぞんざいしていたのだろうか?。
もし、光秀の母ならかなり高齢だし、勝手に信長に断りも無く約束したのは光秀の落ち度でしょう。
その当時の信長はかなり危うい状態ではなかったでしょうか。
安国寺が予言したように、高転びに仰向けになるような状態ではなかったでしょうか?。
信長は気付いていなかっただけで。
う〜ん、やはり黒幕が居り、光秀を操っていたのでは。
黒幕としては、秀吉、家康、足利義昭、正親町天皇が現在考えられています。


[305へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2003/01/03(Fri) 03:06:49

きっと光秀の黒幕など誰もいないのだ・・・(・_・)
単独犯行かと思われるのだ・・・光秀は本能寺の変を起こした時はもう既に50歳過ぎた初老・・・光秀は恐らくもう隠居したいと思っていたかもしれないのだ(・_・)このまま働き続ければいずれは過労で倒れ、そのまま過労死も考えられるなのだ・・・(T_T)
 また島根・鳥取の転勤となれば領国経営で大変苦労する・・・光秀は丹波・近江の領国経営で大変苦労したはずだから初老を越えた光秀に新たな領国経営は苦痛となる・・・なのだ(>_<)苦労に苦労を重ね、ようやく丹波・近江が平定安定したところに今度は山陰へ転勤・・・
(;_;)光秀の部下達も山陰の転勤は嫌だったに違いないのだ!
 丹波や近江であれば当時の先進地帯の京都にも近い・・・今更後進地帯である山陰地方への転勤は明智家全体が嫌だったに違いないのだ・・・光秀はもう働きたくない、隠居して、京都の近くに住んで余生を送りたい・・・教養人である光秀は余生を京都周辺で送りたかったに違いないのだ・・・(@_@)
 


[305へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2003/01/03(Fri) 15:33:03

しかし、光秀は惟任(これとう)日向守を与えられている。
惟任(これとう)は、九州の名族の名前だし、日向も九州に関係する名前だから、これらの意味を光秀は知っていたに違いない。
羽柴秀吉も筑前守を与えられているし、丹羽長秀も惟住(これずみ)を与えられている。
これは、信長の九州侵略を意識した命名なので、光秀にしてもそう嫌ったとは思えない。
最悪、九州のどこかを与えられるのも覚悟していたのではないか。
転勤を嫌って信長を襲ってもどうにもなら無いと思うが。
信長を襲った後のことを考えれば、なおさらだと思うが。


[305へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2003/01/04(Sat) 12:03:03

領地転封による恨みは無かったと考えます。黒幕説の方が、整理がしやすいと思うのですが・・・
すぐに毛利と和睦して取って返してきた秀吉、即座に領地に帰れた家康、光秀の謀反に呼応していたかのような動きを見せる調停・・・黒幕としての疑いのある人物はそれなりに妖しい行動してますし。もしかしたら、光秀の謀反は規定の事実として世間に広まっていた可能性もあります。

http://jadaran.fc2web.com/


[304] 最凶の暴君は誰だァ(?_?) 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/12/24(Tue) 22:37:56

 古今東西関係なく最強最悪の暴君は誰だァ(?_?)
ネロ皇帝か、ヒトラーか、スターリンか、はたまた松倉勝家か?
こいつだけは絶対に許さないと思う暴君をレスして欲しいのだ!


[304へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/12/26(Thu) 16:47:31

ヒトラー。


[304へのレス] 投稿者:可児才蔵 投稿日:2002/12/26(Thu) 20:34:11

同じくヒトラー。


[304へのレス] 投稿者:のだおぶなが 投稿日:2002/12/27(Fri) 18:18:55

董卓。


[304へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/12/27(Fri) 22:14:14

 私はカンボジアのポル・ポトに一票なのだ・・・(・_・)


[304へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/12/28(Sat) 11:27:36

ルーズベルト(ヒトラー等とは性質が違うけど、米国の総責任者って事で)。核落とすわ、無差別爆撃するわ、赤十字船は沈めるわ、欧州では劣悪な環境で捕虜兵がバタバタ死んでゆくのを見過ごすわ…。上げりゃキリがない。恐ろしや。


[304へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/12/28(Sat) 14:56:47

ついでに世界三大バカ共産主義指導者スターリン、毛沢東、金日成にもそれぞれ一票なのだ・・・(・_・)
 計画経済にのっとり、農場・工場など全て国営化により経済破綻・・
政敵には情け容赦ない粛清・強制収容所(T_T)
 共産主義指導者の大好きな現地指導により、更に経済は壊滅的打撃を被る・・・(;_;)
 訳のわからない役にも立たない建造物建設を連発・・・更に国は疲弊する(TT)
 更に自分の肖像画や銅像を立てまくる・・・自分を美化することを怠らない(@_@)
 計画経済・大躍進・文化大革命・個人崇拝・・・何でもござれのスターリン、毛沢東、金日成のオバかな共産主義指導者に一票なのだ・・・(>_<)


[304へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/12/28(Sat) 22:45:40

計画経済は決して悪くなかったのですよ。それが失敗したのは人間の本質的な心理がまだ分からなかっただけです。後経済破綻も正しくない。少なくとも1929年の世界恐慌には巻き込まれなかったのですから。独裁者としては問題でも共産主義はあの時点では決して間違っていたとはいえないと思います。私はむしろフィデル・カストロやナセルのほうに一票を投じますね。


[304へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2002/12/28(Sat) 22:46:55

ちなみに私は一応保守派ですので誤解なきよう。理想は高度社会主義(北欧諸国の考え方の発展)なのですが現実的には今の日本がとる方向でいいです。


[304へのレス] 投稿者:とっとこハム太郎 投稿日:2002/12/29(Sun) 04:57:51

 更に中国のオバか女・・・漢の劉邦夫人呂公と毛沢東夫人の江青にも一票なのだ・・・(@_@)
 人間とは思えない鬼畜女呂公、ただ単にキチガイとしか思えない文化大革命を指導した江青・・・もはやこの2人の女性救いようなし・・・なのだ(>_<)


[304へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/12/30(Mon) 12:16:22

豊臣びいきの私からすれば
徳川家康こそ古今稀に見る暴君だ
旧主の子供を次々と罠にかけておいて
私は秀頼のことを一番に考えているなんて良く言えたものだ!!


[304へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/12/31(Tue) 13:44:34

それが暴君の条件だと豊臣家も立派な暴君なわけですが…。


[304へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/31(Tue) 15:14:56

またしても、若造が家康公の悪口を書いているな(^^;。
秀吉この史上最悪の独裁者だ!!。
旧主の子を殺し、娘や姪を妾にし、甥秀次一族を妻妾眷属全て皆殺しにして、一つの穴に埋めるとは恐るべし、悪逆秀吉。
さらに、自分の名誉のために中国まで攻め込んで朝鮮の人々にとたんの苦しみを与えた。
それに比べて、家康公はなんて慈母のごときお方だ。


[304へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2003/01/01(Wed) 01:52:26

う、それをいってはおしまいだ
不祥若造、敗北………


[304へのレス] 投稿者:亮孔明 投稿日:2003/01/01(Wed) 13:52:57

もともと秀吉は織田家を乗っ取った形で政権を手に入れたのだから、自分の死後は秀頼を宜しく、と頼んだところで、家康以下諸大名がその言いつけを守らないのはむしろ当然の事。
でも家康は秀吉が築いてきた近世日本の政治基盤には感謝しなければいけませんね。晩年秀吉の奇行が目立ち始めたのは脳溢血で倒れた後とも言いますし。


[304へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2003/01/01(Wed) 23:13:35

謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。
織田信長も、比叡山や一向宗に対する仕打ち等等を勘案すれば十分に(日本ではトップレベル?)の暴君だと思います。
うーん・・・そもそも暴君の定義とはなんぞや?
虐殺?対個人に対する執着?圧政?勝手気まま?我儘?無道?粛清?織田信長や呂后、スターリンみたいに功罪相半ばな場合は、政治的結果を是とするのか、残忍な面で暴君とするのか?

http://jadaran.fc2web.com/


[304へのレス] 投稿者:六角定頼 投稿日:2003/01/05(Sun) 15:51:25

私は最低条件としては政権維持のための粛清を行ったことですかね。ただ信長なんかはそれを認定しづらい。私は比叡山はあくまでも政権抗争と考えていますから。やはり暴君と独裁者は違うと思います。考え方の違い云々でなくその時点で明らかに間違っていることを行い、国民生活の窮乏または他国の主権侵害を行い、自己の政権維持のために粛清を行った人ですかね。やはり一番条件を満たせそうなのはネロ皇帝ですかね。他の人は右派と左派で評価が分かれたり政治的功績があったりしますので。


[304へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/06(Mon) 00:08:33

信長の行為そのものは別に戦国時代ではそれほど残酷ではありません。
虐殺なんて北条早雲も尼子経久も武田信玄も伊達政宗もやってる訳ですし。
寺の焼討ちも北条氏綱も徳川家康もやってますし。
(氏綱の件は敵兵が寺に逃げ込んで氏綱が寺に敵兵を追い出せと言ったところ、それを寺が拒否してきた事に怒って氏綱が敵兵ごと寺を焼討ちした、というもの)
信長はやった場所と規模が凄かっただけ。


[304へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2003/01/07(Tue) 10:58:19

>やった場所と規模が凄かっただけ。
その規模が大きいから残酷だと言われているのだと思いますが。


[304へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/07(Tue) 14:53:01

>その規模が大きいから残酷だと言われているのだと思いますが。

これは私の言葉足らずでしたね。
すいません。
私も信長の行為は残酷だと思いますよ。
ただ戦国という時代において信長が飛び抜けて残酷であったかと言うとそれは違うと思います。
信長は戦国の価値観にある意味忠実だったたけで。
他の戦国大名も大なり小なりみんな同じ事をやってると私は言いたかったのです。


[304へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2003/01/07(Tue) 15:02:12

虐殺規模が大きいのはそれだけ信長が短期間で急激に領地を広げた反動と言う一面もあったと思ってます。


[303] 伊達家について 投稿者:姫神 投稿日:2002/12/22(Sun) 12:26:45

大阪に『伊達家』関係の場所はあるのでしょうか?あればおしえてください。(できれば場所も)何でもいいのでよろしくお願いします。


[303へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2003/01/03(Fri) 06:01:36

大阪っていうのはちょっと厳しいですね。やはり、旧仙台領(宮城県から岩手県の北上市以南)西の方でしたら愛媛県宇和島市にでも行かないと・・・。ちなみに、現在の伊達政宗記念館(博物館でしたっけ?)の館長さんは政宗から数えて十七代目の方です。姫神様、機会があったら是非訪ねてみてください


[303へのレス] 投稿者:姫神 投稿日:2003/01/05(Sun) 23:12:32

後水尾帝様、ありがとうございます。感激のあまり涙が出そうです(って少し大げさかな)。特に館長さんが子孫だというのが嬉しいですね。 


[303へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2003/01/09(Thu) 03:04:59

私、一度会った(見かけた)事があるんです。その人の分家(登米〈とよま〉伊達家)の当主が親父の大学時代の同級生で、親父がその人から紹介された際に。やさしい顔の方でしたが、時折見せる真剣な眼差しは武士そのものでしたよ。


[302] no title 投稿者:斎藤道三 投稿日:2002/12/21(Sat) 19:05:29

以前もお聞きしたのですが榊原康政と井伊直政と石川数正と本多重次と結城秀康、松平忠吉の正室を教えてくだされ。それとそれを知ることのできるネット上の資料もお願いいたしまする。


[302へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/30(Mon) 20:18:38

松平忠吉の正室は、徳川四天王の一人井伊直政の娘です。
結城秀康は、結城晴朝の養子になった後、その養女鶴姫を正室にしました。
井伊直政の娘の名前と、後の方はわかりません。
後は、もっと詳しい方にお譲りします。


[301] 本能寺 投稿者:伊達秀宗 投稿日:2002/12/18(Wed) 01:25:42

初めまして、ここの利用も初めになります。よろしくお願いします。
早速ですが、皆さんは津本陽さんの、『本能寺』をよまれましたか?
僕はアレをよんで、やっぱり幽斎絡んでるなぁという思いを強くしました。みなさんはどうでしょう?


[301へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/12/18(Wed) 20:19:39

読んでいない人の為に簡単な本の紹介をすると良いと思います。
なぜ幽斎が絡んでいるか、等・・。
自分も知らないので。


[301へのレス] 投稿者:伊達秀宗 投稿日:2002/12/22(Sun) 22:49:01

わかりました。させていただきます。その紹介をするコーナーとかはあるのですか?


[301へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/12/23(Mon) 19:51:17

ここでしても良いと思いますし、ブックレビューの方に投稿しても良いと思います。


[301へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/30(Mon) 20:23:05

津本陽の「本能寺」はまだ読んでいません。
同じく幽斎絡んでると言う視点で関が原を描いた「関が原連判状」安部龍太郎があります。
一度、読んでみてください。


[300] 福沢諭吉 投稿者:ゆーとぴあイアウエオ企画 投稿日:2002/12/16(Mon) 00:40:03

彼の性格はどうだと思います?
気になるのでそのことについて書かれている本を教えていただければ幸いです。

http://www.kinet-tv.ne.jp/~katagiri/index.html.htm


[300へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/12/16(Mon) 16:53:48

なるほど。これは江戸幕府ブックレビューへの注文かな?


[300へのレス] 投稿者:ゆーとぴあイアウエオ企画 投稿日:2002/12/17(Tue) 20:57:16

「江戸幕府ブックレビュー」とは何なのでしょう?
僕は「福翁自伝」を読んでいたのですが、そこで彼の明治序盤からかけている部分が多いのでなんか彼の意図したことがあったのではと思ったのですよ。
何故なんでしょうね?

http://www.kinet-tv.ne.jp/~katagiri/index.html.htm


[300へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/12/18(Wed) 20:20:01

歴史コーナーの一つです。<江戸幕府ブックレビュー


[299] 真の名君とは 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2002/12/15(Sun) 01:08:04

辻邦生氏の名作、「背教者ユリアヌス」を読みました、ユリアヌス帝の誠実な生き方・美しい人柄に大変感動しました、またギボンの大作「ローマ帝国衰亡史」をよんで史実においても彼の実像が遜色ないものと知り、ますます彼のファンになりました、皆さんにとって名君と聞いて思い浮かべるのは誰ですか


[299へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/15(Sun) 19:28:26

誰が何と言おうと、保科正之ですね。
江戸三百年を通じて名君と呼ばれる方は、たくさんおられますが保科正之は幕末の会津藩の基礎を作りながら、幼い四代将軍家綱を助け幕政の安泰にも貢献しました。
江戸時代屈指の名君といってよいでしょう。


[299へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/12/15(Sun) 22:13:06

もちろん真田幸村ですね
幸村は戦しかしていませんが
あれだけ兵の統率に長けていたんですから
政治をやらせても相当の腕を・・・かも
やっぱり真田信幸かな
それなら武田信玄・・・


[299へのレス] 投稿者:RON 投稿日:2002/12/16(Mon) 23:50:54

やっぱり後漢の光武帝ですかねぇ。
覇業と守成を一人でなした稀代の英雄でしょう。
天下統一後も、国を復興したし、粛清しなかったし。
平凡に見えるけど、やることはやるのが治世の名君の証では?

http://jadaran.fc2web.com/


[299へのレス] 投稿者:小笠原忠真 投稿日:2002/12/21(Sat) 10:02:44

米沢藩の財政破綻を救った鷹山公ですね。


[299へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/12/21(Sat) 23:12:46

中国なら王陽明だと私は思います


[299へのレス] 投稿者:蒲生定秀 投稿日:2002/12/23(Mon) 17:39:11

「名将」ではなく、「名君」となると私は西洋ならユリウス=カエサルを推します。東洋なら…光武帝は即出ですので銭弘佐や馬殷というマイナーな王はいかがでしょう。


[298] 今日は・・。 投稿者:島津斉彬 投稿日:2002/12/14(Sat) 18:39:15

ここ使うのは、はじめてです。
今日は赤穂浪士 吉良邸襲撃の日です。
そこで吉良と大石について教えてください。
中2でそこまで詳しく知らないので・・・。


[298へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/12/15(Sun) 00:37:18

こんにちは、島津殿
ああ、時間的にこんにちはじゃないか・・・
ええと、吉良家はもともと三河の守護職だった家です
足利一族の名門で将軍家が絶えたら、鎌倉公方、そこもいなかったら吉良家から持ってくると世間ではいわれていたくらいです。
吉良家も他の守護大名と同じように衰退していきました。
それを家康は義定という末の者を高家衆に任じ、三河の国幡豆郡3200万石を与えた。
上野介はその義定のひ孫に当たります。
上野介は米沢15万石の城主、上杉家から三姫(米沢藩主上杉綱勝の妹)と結婚しました。
高家衆というのは将軍や大名が参内する時の礼を教える役職です
諸大名にしてみれば、参内の時にぶざまな姿は見せられないので、高家衆に教わる他なく、又、上野介は当時の権力者、柳沢吉保と昵懇だったので相当な権力を持っていたようです。
大石家は平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫で、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職[げししき] になったので地名をとって大石氏を名乗るようになった
内蔵助の曾祖父である良雄は浅野長重(播州浅野家の祖・浅野長政の三男)に仕え、大坂冬の陣で武功をたて、後に家老になって1500石を領した。
内蔵助は21歳で家老になりました。
これが吉良と大石の家の歴史です。
忠臣蔵のことはみなさんの方が詳しいと思うので省きます。


[298へのレス] 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2002/12/15(Sun) 19:46:14

蛇足ではありますが足利将軍の後継について
これには続きがありまして吉良がダメなら今川であったそうです


[298へのレス] 投稿者:島津斉彬 投稿日:2002/12/18(Wed) 20:06:38

有難うございます。


[297] 名コンビ 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2002/12/12(Thu) 19:58:27

皆さん名コンビと言えばだれを思い浮かべますか。

私が思い浮かべる名コンビはまず豊臣秀吉、秀長兄弟。
行動の秀吉に慎重の秀長。
お互い足りない部分を補い合ったまさに名コンビ。

あとは破局する前の足利尊氏、直義兄弟。
こっちは軍事の尊氏、政治の直義。
二人合わせれば怖いものなし。
ただこの兄弟は尊氏は政治オンチなところがあり、直義は戦争オンチであった。
二人で一人前という評価もある。

皆さんはどうですか


[297へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/13(Fri) 17:18:49

私は、徳川家康と本多正信ですね。
「君臣の間、あい合う事水魚の如し」と評された間柄ですから。
後は、徳川秀忠と土井利勝、徳川家光と松平信綱、徳川吉宗と大岡越前、徳川綱吉と柳沢吉保かなぁ。
徳川関係ばかりで済みませんが、いいじゃないここは江戸幕府だから。


[297へのレス] 投稿者:亮孔明 投稿日:2002/12/14(Sat) 11:29:10

名コンビといえば、私も足利尊氏・直義兄弟を思い浮かべます。
中先代の乱で直義ピンチの報を聞いて後醍醐天皇の制止を振り切って助けに駆け付けた尊氏。
乱の鎮圧後、後醍醐天皇の帰還命令に従おうとした尊氏を、謀略のにおいがすると言って引きとめた直義。
宇喜多殿の仰るとおり、二人は互いの弱点を補い合いながら乱世を生き抜いてきました。そんな兄弟が政争に巻き込まれ、遂には弟の毒殺を命じた尊氏の心境はどのようなものだったのでしょう。
ちなみに尊氏は、ある寺へ祈願に行った際、「自分のことはどうでもよいから、どうか弟にご加護をお与えください」といった内容の文を奉納したそうです。


[297へのレス] 投稿者:島津斉彬 投稿日:2002/12/14(Sat) 18:40:38

忠臣蔵コンビはいろんな意味での名コンビ!


[297へのレス] 投稿者:坂本竜馬 投稿日:2002/12/14(Sat) 19:46:10

名コンビといえば三国時代の諸葛孔明とホウ士元(スミマセン、ほうの字が出ない)でしょう、竜鳳そろえれば天下が取れる、と言われたそうですが、孔明が政戦両略を、ほう士元が戦術指揮を担当していたのです
だからよく言われる「名軍師諸葛孔明」は三国志演技をはじめとする軍記物語の創造物なのです、ちなみに孔明の初陣は南蛮征伐になります
魏との戦いでは孔明が主将となりますが、それは孔明以外にあれだけの大軍を指揮統率できる器量のある人物がいなかった為でやむなく孔明が
自分の専門外である軍事の指揮をとったのです、孔明も「もし士元が生きていてくれれば・・・・」と何度もおもったかもしれません。


[297へのレス] 投稿者:宇喜多八郎 投稿日:2002/12/19(Thu) 19:12:37

皆さん色々書いて頂きありがとうございました。


[297へのレス] 投稿者:小笠原忠真 投稿日:2002/12/20(Fri) 20:20:25

近藤勇と土方歳三も名コンビだと思います。


[296] 国分寺式伽藍配置と東大寺式伽藍配置 投稿者:ゆーとぴあイアウエオ企画 投稿日:2002/12/08(Sun) 23:40:43

これは=で結べるでしょうか?
よろしければ教えてください。

http://www.kinet-tv.ne.jp/~katagiri/index.html.htm


[295] 竜造寺 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/12/08(Sun) 15:22:36

私は九州の戦国史に興味があるのですが、特に竜造寺家について詳しく知りたいと思っています。そこで、竜造寺家について何かご存知のかたは、どんなことでも良いのでレスお願いします


[295へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/12/08(Sun) 16:57:46

竜造寺家は元々は少弐家の被官で、
隆信はその分家の水ヶ江竜造寺の子、すでに出家していました。
そこで少弐家の謀略により当主始め一族が皆殺しされ、16歳の
隆信は還俗し、竜造寺分家の当主となります。周防の大内義隆公の援助の下、竜造寺本家と連合して仇敵・少弐を追い払います。
青年武将・隆信はその後病死した本家の当主の跡を継ぎ、総領となります。されど庇護してくれていた、周防の大内義隆が陶晴賢の謀反により倒れると、家臣の叛逆や少弐氏の再攻、大友の大攻勢により、以後約20年間は苦しい戦いの時代が続きました。
そして永禄末年の今山合戦で大逆転で大友氏を破ってから、隆信
の北部九州制覇の時代が到来します。10年足らずで5州2島の
太守にのしあがります。そして数年後、島原での島津との戦で
あっけなく最期を迎えるのです。
竜造寺隆信は、生来の傲慢さに加え少年期の悲惨な体験が加わり
人を信じない暴虐非道な人物であったとの説が一般的ですね。


[295へのレス] 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/12/08(Sun) 19:59:40

隆信が分家の出身だったとは知りませんでした。ありがとうございました。


[295へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/12/12(Thu) 18:14:35

鍋島直茂って竜造寺家の当主が病弱だったため変わりに政権をとったとか・・・。本によっては「乗っ取った」とか「正当に後を継いだ」とか諸説ありますが実際はどうだったのでしょう?


[295へのレス] 投稿者:小笠原忠真 投稿日:2002/12/20(Fri) 19:50:25

昔のことですが、平成7年に佐賀県立博物館の企画展で「五州の太守竜造寺隆信の時代」をやっていました。


[295へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/12/22(Sun) 23:47:24

>御水尾帝
龍造寺隆信が、1584年の沖田畷(島原)で散ると、嫡男・政家が後を継ぐのですが、実際には病身の政家に代わり、鍋島直茂が政務を見ていたようです。その後、秀吉の九州征伐の際、鍋島直茂が佐賀を与えられたと私は記憶しているのですが。どうでしょう? そのあたりはうろ覚えです。(^^;)
その後、関ヶ原で西軍につくも直茂が立花家の柳川城を攻めるなどし、佐賀を安堵されました。しばらくしてから、病身の政家の子(名前忘れましたが)が江戸幕府に「鍋島が竜造寺を乗っ取った」というかんじで訴え出たそうです。そのことから、「化け猫騒動」なるものが生まれたらしいです。


[295へのレス] 投稿者:小笠原忠真 投稿日:2002/12/23(Mon) 13:42:47

政家の子高房が慶長8年(1603)?に切腹未遂事件をして、その後毒魚を食べて死亡。一ヶ月後に政家も死亡。そこで竜造寺一門の家晴・信周・長信が直茂の功績を称え、勝茂を相続人に推挙したと聞いています。寛永11年(1634)以降、高房の子が3回竜造寺復興を幕府に願い出ていますが、すべて却下されたそうです。


[294] 北の名将散る 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/12/05(Thu) 23:13:18

1週間ほど実家のある岩手に帰っていました。
そこで東北新幹線八戸延伸記念番組として九戸政実の乱を放送していました(全国放送だったのかな?)
彼は自分が南部家の当主になれなかった事を恨んで蜂起したと思っていましたが、どうやらそれだけではないようです。奥州にいる反豊臣系の人間達にまつりあげられ、蜂起せざるを得なかったようです。
 皆さんはこの九戸の乱をどのように解釈なさっているのでしょう。ご意見お待ちしております。  長文をお詫び致します。


[294へのレス] 投稿者:信長 投稿日:2002/12/06(Fri) 22:05:38

すみません。九戸政実の乱ってなんですか?東海地方なので全然わかりません


[294へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/12/06(Fri) 22:39:18

九戸政実の乱、聞いた事はありますが内容知りません。
九州地方なので。


[294へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/12/07(Sat) 00:41:11

九戸政実の乱
天正19年(1591年)

-----------------------------------------------------------
九戸政実x蒲生氏郷
岩手県二戸市福岡町五日町
☆戦いの背景
戦国期の南部氏は当主晴政・晴継の相次ぐ死によって一族の石川信直が26代に迎えられたが,同じ一族の九戸政実は不満であった.その内紛が解決されないまま,秀吉の奥州仕置きという事態になった.南部信直は秀吉についたが,政実はこれに属さず秀吉の仕置きのための軍勢が撤収すると共に公然と信直に対する謀反に立ち上がった.
☆戦いの経過
天正19年3月政実は櫛引・久慈・七戸氏らを誘って,自分たちに味方をしない諸氏の城を攻めはじめた.信直も北・名久井・浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが,政実らの勢力が強大化し,遂に信直は子利直と重臣北信愛の二人を上洛させ,秀吉に援軍を要請することになった.
秀吉にとってみれば,ようやく全国統一を成し遂げたばかりの反乱軍の蜂起ということになり,奥州再仕置きの軍を差し向けることになった.葛西氏・大崎氏の遺臣たちも蜂起し,いわゆる「葛西・大崎一揆」をおこしていたからである.秀吉は羽柴秀次を総大将に九戸政実討伐の大将として蒲生氏郷,葛西・大崎一揆討伐の大将として伊達政宗を任命した.

氏郷が会津若松を出発したのは7月24日軍勢3万といわれる.8月7日・8日には浅野長政の軍と合流して二本松から北進を開始し,23日に和賀に着陣.この辺りから九戸勢との戦いが始まり,9月1日には姉帯城(岩手県二戸郡一戸町姉帯)及び根反城(根曾利友,同一戸町根反)を落とし,その勢いで,九戸城の包囲にかかったのである.

九戸政実の乱は九戸一揆などとも表現されるが,大谷吉継配下として出羽(秋田・山形県)の諸将も九戸城攻めに動員されており,小野寺義道,戸沢盛安,秋田実季らがこれに桑田っていた.また,それだけではなく津軽為信・松前慶広も北から南下して包囲網に加わり,そのため,5千の城兵は6万の大軍に包囲されるという形になってしまったのである.

攻城軍は火矢・鉄砲更に松前軍のようにアイヌの毒矢を使って攻撃し,遂に9月4日九戸氏にユカリの深い薩天和尚のとりなしにより,降伏ということになった.その日,政実・櫛引清長は剃髪して降り,城を出て三迫(宮城県栗原郡三迫)に送られ,そこで150人の主だった城兵と共に首を斬られた.
☆戦いの結果
一方,大将の降伏で命を助けられると思った城兵は二の丸に追い籠められ,そこに火をかけられて非戦闘員の婦女子に至るまで皆殺しにされてしまった.この戦いの後,信直には和賀・稗貫・志和の三郡が加増された.


[294へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/12/07(Sat) 00:42:23

上レスの参考資料
http://www15.cds.ne.jp/~eagle/moto/1591knhmszn.html


[294へのレス] 投稿者:斎藤道三 投稿日:2002/12/07(Sat) 15:27:59

余談ですいませんが政実は秀吉が約10万の大軍で来ていながら兵糧攻めにしたことに対して「戦い方が武士らしくない。卑怯だ!」と言ったそうです。


[294へのレス] 投稿者:後水尾帝 投稿日:2002/12/12(Thu) 18:11:18

そんなにメジャーではなかったようですね。しかし、秀吉に最期まで抵抗した武将として片隅に記憶していただけたら幸いです。もし岩手に行かれる際はその史跡を尋ねてみて下さい。新幹線の二戸駅からすぐです。
上杉殿、斎藤殿、ご意見ありがとうございました


[294へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/13(Fri) 17:10:30

この一揆の原因として、太閤検地の過酷さが挙げられる。
今まで、地方地方でいろいろ慣習あったのを秀吉は認めず、六尺平方と決めて強行した。
もうひとつは、ここの領主になった木村吉清親子の政治のまずさにある。
5千石の小身から一躍三十万石の大名に出世したこの親子は、多数の家臣を召抱えたが、その質が悪かった。
伊達成実の日記に「本侍、百姓のところに押し込み、米を取り、百姓の下人下女を奪い、歴々の嫁、娘をわが女房に奪い」とある。
秀吉の太閤検地の厳しさは、秀吉自身の手紙からも伺える。
「言う事聞かない百姓は、一町一村撫で斬りにしてしまえ」というのが残っており、伝えられるような決して陽気な立身出世者でなく、冷酷な独裁者である事がわかるでしょう。


[293] no title 投稿者:斎藤道三 投稿日:2002/12/03(Tue) 20:52:15

酒井忠次を除く徳川四天王の正室は誰ですか?


[293へのレス] 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/12/04(Wed) 20:40:26

本多平八郎忠勝公は、正室・・阿知和氏の娘・於久です。ちなみに側室は乙女です。


[292] 「神仏習合」は何故起こったのか? 投稿者:ゆーとぴあイアウエオ企画 投稿日:2002/12/02(Mon) 23:04:09

皆さんは何故だと思いますか?
僕は日本の「神道」の性質と地理的条件が深くかかわっていると思います。

http://www.kinet-tv.ne.jp/~katagiri/index.html.htm


[292へのレス] 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/12/04(Wed) 13:10:19

私は神道はもともと日本に大昔からあった土着の民間信仰と中国大陸の信仰、いわばさまざまな異文化をを統合して生み出されたと聞いたことがあります。このことを踏まえて考えれば、政治的に利用されたという側面は強いものの、神仏習合も神道が発展する過程で途中で朝鮮からわたってきた”異文化”をのみこんだ(もしくはのみこまれた)のではないでしょうか。


[292へのレス] 投稿者:ゆーとぴあイアウエオ企画 投稿日:2002/12/06(Fri) 02:07:29

ありがとうございます。
次なんですが「伊藤若冲」についてで、彼は鶏の絵で有名ですが、彼の作品には人間の絵はないのでしょうか?
よろしければ教えてください。

http://www.kinet-tv.ne.jp/~katagiri/index.html.htm


[292へのレス] 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/12/08(Sun) 15:05:34

うーん…見たことは無いですね。


[291] 邪馬台国はどこ? 投稿者:上杉弾正少弼謙信 投稿日:2002/11/27(Wed) 18:52:14

皆さんは、邪馬台国がどこにあったと思いますか?

自分的には、北九州にあったと思います。
金印が発見されたし、朝鮮に船をだすには日本海に面していなければいけない。
皆さんはどこにあったと思いますか?レスお願いします。

http://homepage3.nifty.com/hkume/


[291へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/11/27(Wed) 23:58:27

それは、ずばり福岡県甘木市〜三輪町周辺です。安本先生の説
のとおり、邪馬台国はこの地にあり、その後政権は大和に移り
ました。甘木と大和は、地名と方角が多々一致しています。


[291へのレス] 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/11/30(Sat) 11:47:31

はじめまして。早速ですが、僕も北九州にあったと思います。地名の一致はもちろん、海流の関係で中国大陸から移動しやすいと言うことを社会の先生から習いました。


[291へのレス] 投稿者:源二郎信繁 投稿日:2002/12/01(Sun) 00:05:47

私も北九州かと思います


[291へのレス] 投稿者:忠臣・吉弘統幸 投稿日:2002/12/01(Sun) 15:04:42

福岡県に住んでいますが、北九州説と言っても、
前掲の「甘木説」「糸島説」「豊前・宇佐説」など
いくつかあります。


[291へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/12/01(Sun) 15:29:14

邪馬台国論争には、学閥も絡んでいます。
畿内(大和)説は京都大学系、北九州説は東京大学系に分かれています。
その起源は古く1910年(明治43)に京大の内藤湖南が大和説をとり、これに対して東大の白鳥庫吉が九州説を取って以来、その学説地図は続いています。

私個人的には、北九州を取ります。
根拠は在りません(学者じゃないので)、中国、韓国との距離を考えると北九州がよいと思います。


[291へのレス] 投稿者:江里口信常 投稿日:2002/12/04(Wed) 13:04:18

吉弘殿の仰るとうり。私は個人的には佐賀県東部〜福岡県西部だと思っています。根拠としては有名な吉野ケ里遺跡の存在佐賀県鳥栖市に存在する貴重な遺跡などです


[290] 初めまして 投稿者:帰蝶 投稿日:2002/11/24(Sun) 23:47:27

初めまして、帰蝶と申しまする。
私は織田信長様について深く知りたいのですが、
知識が足らず現在は分からずじまいのことが多々ございます。
そこで、私よりも歴史に長けたあなた様方のお知恵を
拝借したいのです。無礼とは思いますが、どうかお許しあれ。
皆様の貴重な時間を無駄にしたくはありませんので、
さっそく質問に入らせて頂きます…。
・信長様の御子、お永とお冬のご生母はどなた?
・生駒の方は1566年にご逝去されたと聞いているのですが
なぜ大河ドラマの中では本能寺の変後もご存命なのか?
小さな情報でも構いませぬので、どうか教えてくださりませ。


[290へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/11/25(Mon) 13:09:55

生駒の方は1566年にご逝去されたと聞いているのですが

これは、大河ドラマの嘘(それも大嘘)です。
最近の大河ドラマは視聴者にこびてとんでもない事をするので、眉につばをつけて用心してみる事が肝要です(笑)。

信長様の御子、お永とお冬のご生母はどなた?

このことは、ちょっとわかりません。
織田家に詳しい方のレスお待ちください。


[290へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/11/25(Mon) 23:58:02

冬姫と永姫の生母は両者とも不明となっています。
この事に書かれた書物が発見されれば分かると思いますが、
今の段階では不明と言う表記です。あまり力になれなくてすいません。


[290へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/11/26(Tue) 00:00:13

冬姫=蒲生氏郷室
永姫(玉泉院)=前田利長室

知ってるかもしれませんが、一応書いておきますm(_ _)m


[290へのレス] 投稿者:斎藤道三 投稿日:2002/11/28(Thu) 14:56:45

永姫の母は不詳ですが金沢八坂鶴林寺に墳墓があります。元和4年(1618)3月3日に亡くなっている。
冬姫の母も不詳ですが於次丸秀勝と同腹です。


[290へのレス] 投稿者:帰蝶 投稿日:2002/11/28(Thu) 17:11:16

皆様、ご親切に教えてくださってまことに感謝いたしまする。
お永とお冬の生母はわからずとも、皆様方の暖かなお心を
感じられて幸いです。
日光山殿、羽柴秀勝殿、斉藤道三殿、ありがとうございました。


[290へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/12/02(Mon) 00:38:55

あ、冬姫は某と同腹でしたか。これは知りませんでした。