[164] 幕末の情勢 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/10(Sun) 20:51:13幕末に詳しい方教えて欲しいんですが、その頃の幕末は宇一体どういう情勢だったのでしょう?
新撰組は攘夷派なのか佐幕派なのか(小説読んでも理解出来ない)
燃えよ剣とか読破してる割には全くわかってないんでお願いします。基本的な疑問は
1,その頃の情勢(あいまいですが)
2,新撰組は誰を切っていたのか?攘夷派を斬っていたなら佐幕と違うんですか?(汗
3,佐幕派は竜馬達だと思うのですが長州過激派やら土佐過激派やら・・・・・。サッパリ。
お願いします。
[164へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/03/11(Mon) 00:09:18私もそれ程分かってない派なんですが、
1.土佐と薩摩、彼らのおかげで幕末が分からない。
薩摩は、あの手この手で幕府を困らせてやろうって方針な気がします。
幕末を複雑にしてるイイ意味での主役って印象。
問題は土佐。ココが何したかったんかがサッパリ分からん。
これは、どなたか御教示下さい。
2.尊王攘夷を語って悪事ばっかり働くだけで、
ちっとも世直し活動をやってないプータロー連中と
幕府に盾突く、幕府にとって危険な人物を洛中で取り締まるお仕事。
幕府に養ってもらってて、会津の指揮下で活動って事でいいハズ。
3.竜馬が佐幕派っていうとちょっと違う気がします。
幕府「命」、または幕府を援けようってのが佐幕派と思います。
[164へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/03/11(Mon) 00:22:10コーエーの「維新の嵐」がきっかけで、勉強を始めました。
そんなに参考にならないゲームかもしれません。
カルタの出し合いが分かると遊べます。
エンディングは物足りない印象ですが。
[164へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/11(Mon) 06:45:58なるほど。ありがとうございます。
[164へのレス] 投稿者:筑前守ツヨシ 投稿日:2002/03/12(Tue) 20:55:15ここに書くのが初めての上、詳しいわけでもありませんが・・・
1.思想としては大まかに、尊王(=勤王)⇔佐幕(⇔倒幕)、攘夷⇔開国?という感じです。尊王と攘夷が結びついたのは、時の孝明天皇が大の外国人嫌いだったからです。
あと、土佐は藩主山内容堂が「酔えば勤王、覚めれば佐幕」といわれる程、ころころ情勢を見てかえてました。
2.新撰組は佐幕の代表格だと思います。隊士で違う考えの人間がいても粛正されていってますし。あとは、光源院義輝殿と同意見です。
3.龍馬を一言で言えば、将軍好きな平和的倒幕派 だと思います。
薩摩等の強硬派は戦争による政権奪取をねらい、龍馬は和平交渉による政権交代をねらいます。他にも龍馬は、徳川慶喜を新政府で高い地位につかすため為、尽力します。その前に暗殺されますが。
最後にオススメは、すべてを信じない程度に「維新の嵐」と漫画「お〜い!竜馬」です。
[164へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/13(Wed) 18:44:411 思想としては、尊皇攘夷VS公武合体派又は公儀政体派に分かれます。確かに、孝明天皇は異人嫌いであったが、幕府は嫌いでなく、その存在は認めていた。
2 新撰組は佐幕派でしたが、成立当時は芹沢鴨を中心とする水戸派と、近藤勇を中心とする江戸派に分かれていました。
芹沢鴨は、その所業が常軌に逸していて会津藩の暗黙の了解の基に、暗殺されました。
その後は、朝廷と幕府の為活動しました。
3 坂本龍馬は、簡単には割り切れない幕末のヒーローでしょう。
最初は、攘夷で、勝海舟に会ってからは開国、そして、倒幕を目指しますが自分の発案で慶喜が大政奉還してからは、心情的に幕府よりかな。
多分、当時の人間にとって将軍自ら三百年続いた幕府を返上しようとは考えられなかったと思う。
だから、龍馬は大政奉還成ると聞いて、感激し「よくぞ決断されたと涙を流し、吾、公(慶喜)の為に死なん」と言っている。
しかし、大政奉還が成って困るのは薩長の討幕派です。
大政奉還と同時に、討幕の密勅(中身は偽勅)が出ておりこの扱いに困ってしまったわけです。
その為龍馬は消され、西郷による江戸荒らしになって鳥羽伏見になるわけです。
私も、最後にお勧めは「修羅の刻」の坂本龍馬編と新撰組編です。
[164へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/03/14(Thu) 23:52:46土佐においては、武市瑞山の活躍がありましたね。実権をにぎり、若き新藩主を孝明天皇に謁見させたほど得意の絶頂にいたそうですよ。
[164へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/16(Sat) 07:12:45なるほど。なるほど。ありがとうございます
[164へのレス] 投稿者:早雲庵宗瑞 投稿日:2002/03/17(Sun) 23:00:36結論から言うと新撰組は攘夷派であり佐幕派でもあります。
攘夷は思想であり佐幕は政治構想というわけです。
[163] 毛利と徳川の石高 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/09(Sat) 19:57:28皆さんにお聞きしたい事があります。
それは、関が原当時の毛利と徳川の石高についてです。
毛利は、安芸・備後・備中・石見・出雲・隠岐・長門・周防の八カ国を領していました。
そして、その石高は公称百二十万石でした。
それに対して、徳川は伊豆・相模・武蔵・上野・下野・上総・下総の六カ国しか領していませんでした。
しかし、それにもかかわらず、その石高は公称二百四十万石でした。
これっておかしいと思いませんか?。
私の考えとしては、これは秀吉の毛利優遇、徳川冷遇の現われだと思います。
毛利は秀吉が大返しの時、追撃せず天下取りに貢献したのに対して、徳川は小牧・長久手で秀吉を破り、苦い目を合わせた。
その違いが、軍役に対する石高になったのではないか。
石高が多いほど、軍役が重くなるのが常識です。
関東は、当時西国に対して後進国ですから、石高は低いはずです。
皆さんのお考えをお聞かせください。
[163へのレス] 投稿者:ひよこ 投稿日:2002/03/10(Sun) 01:40:25関東平野は肥沃なのです・・・と思います。
[163へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/10(Sun) 10:12:50私もそう思うのですが・・・。国が二カ国違うのに石高は二倍強とはいささか・・・・。
[163へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/03/10(Sun) 12:47:15平野の面積比でいえば関東の方がはるかに広いということでしょう。
秀吉は遠ざけたつもりが逆に力を与えてしまったのでは・・関東に豊臣恩顧の大名を入れておけばはさみうちにできたのに。
[163へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/03/10(Sun) 14:06:02その関東の家康を牽制する為に、東海道添いに豊臣恩顧の大名をがちがちに固めましたが・・・結果は皆様ご存知だと思うので省略します。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6081/
[163へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/10(Sun) 20:46:44遠ざけるより近くに居させた方が少なくとも自分の存命中は安全だと思いますけどねぇ。毛利と徳川の領地を反対にしたらどうでしょうか(笑
[163へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/03/10(Sun) 23:25:16秀吉にしたって「武蔵ってそんなに豊かだったんかい」って事だったと思います。いっそ、上杉に関東を与えといて、家康は会津に押し込めてしまうなんてどうでしょう?
[163へのレス] 投稿者:小一郎 投稿日:2002/03/11(Mon) 00:30:58とにかく家康を関東に据えたのはマチガイですね。そのままの方がまだマシだったと思います。もしくは西国なら朝鮮に出兵させられたのに・・・。当時の秀吉に「日本一広い平野は関東平野」ってことを教えてあげたいですよ。
[163へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/11(Mon) 01:34:37関東入国は、家康にとっては良かったのではないかなぁ。
ただ、これは結果論であって、肥後に封じられた佐々成政のように、叛乱(北条遺臣による)起こされて改易なっていたかもわからない。
家康は、国替えによって三河以来の古い体質を断ち切り、その上朝鮮出兵を免れたのですから。
家康がこの国替えで、唯一惜しんだのは甲斐の国を失った事らしい。
[163へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/03/11(Mon) 09:53:55後北条氏などが開発を進めていたにしろ、240万石は潜在的な石高を含めてのものじゃないでしょうか? 実際、家康は江戸城強化よりも、榊原康政や伊奈忠次に命じた開発に力を入れ、関ヶ原寸前には250万石を超える実高になっていたんじゃないでしょうか。
[163へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/03/11(Mon) 09:59:14秀吉にとって上杉景勝はすぐ臣従したため、矛を交えていない有力大名。早期の天下統一を実現するのに貢献したありがたい存在だが、先代・謙信以来越後に定着しており戦力は侮りがたい。なるべく大坂から遠ざけ、雪による出兵障害も備え、伊達政宗とつぶしあいをさせるためにも会津が一番よかったんじゃないですかね。
[163へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/03/14(Thu) 23:35:38何考えてるか分からん家康と政宗を隣同士にしとくのもヤッパ怖いですね、潰し合うより手を組みそうで・・。力量があって信任できる人じゃないと会津は与えられませんし・・。それがし、少し浅謀でした。
[162] 毛利について 投稿者:小一郎 投稿日:2002/03/08(Fri) 23:22:33非常に久しぶりに江戸幕府にやってきました。まぁ、そんなことはどうでもいいのです。さて、前に「伊達政宗がもっと早く生まれていたら」という討論がありましたが、逆に「毛利元就が十五年遅く生まれていて、家督を継いだとしたら」どうなったでしょうか?その場合、義興や経久はこの世を去っていますから元就にとっては逆にそっちの方が有利だったかもしれません。ただ、尼子か大内が強大化し過ぎて一生従属することになる可能性もありますが。みなさんはどう思いますか?自分としては元就と信長に前面戦争をしてほしかった・・・。輝元には荷が重すぎたのでしょうか。
[161] 八王子城について 投稿者:八王子大好きっ子 投稿日:2002/03/06(Wed) 16:54:28秀吉による北条討伐のさい、八王子城の守将を勤めたのは誰なのでしょう。
以前耳にしたのは、北条氏照だったのですが、まさか氏照ほどの
武将が八王子城にいるわけないですもんね(^^;
めちゃくちゃローカルネタでお許しください。
[161へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/03/08(Fri) 10:06:13八王子城は北条氏照が城主でしたが、小田原攻めの際には兄・氏政、甥・氏直がいる小田原城でともに篭城しています。前田利家、上杉景勝ら15000人の北国方面軍に攻められた八王子城を守ったのは、氏照の家臣・狩野一庵(たしか?)らと民衆。一城を見せしめで虐殺し、その後の降伏を速やかにして双方の犠牲者を最小限にとどめるという秀吉の戦法のターゲットになったのが八王子だったような気が。
[162へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/03/09(Sat) 02:33:18毛利元就ですか。彼の場合、遅く生まれていなくても毛利家の領地が最初から安芸1国全部だったら天下を狙えたかも知れませんね。なんせ、安芸1国を統一するためにかかった膨大な時間を削れるのですから。あと、嫡男・隆元が死なずに生きてさえいれば毛利両川もいる事ですしまさに最強の勢力になるかもしれません。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6081/
[162へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/03/11(Mon) 00:40:06守護・武田家を倒してからの空白期間が長いのが痛いです。
元就、隆元が揃って1580年頃まで長生きすれば、もう少し積極的東上作戦を推し進められた気がしないでもありません。
ただ、気になるのは遺言から感じられる消極性。信長に攻められる危機感でもないと西国一の太守で終わらせてしまいそう。
[162へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/03/11(Mon) 10:04:23毛利元就の天下取りにおける消極性、義輝殿と同意見ですね。実際、上洛による権威の確立ではなく、本当の意味での天下統一を考えたのはやはり信長だけだと思いますね。それは別として、毛利が播磨や摂津を越えて上洛まで決行すると、どうしても背後の大友など九州勢が気になります。
[162へのレス] 投稿者:宍戸安芸守 投稿日:2002/06/26(Wed) 21:03:50はじめまして。私も意見書かせていただきます。当時の大名達の多くは天下を望まずに自分の領土を一定まで広げたら保身に走るのが一般的と聞きました。
[160] 葵の御紋は無敵か? 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/02(Sat) 12:32:57皆さん、こんにちは、日光山です。
皆さんに伺いたいことがあります。
時代劇で、特にお血筋物と呼ばれる時代劇では、三つ葉葵の紋を見るだけで平伏したり、畏れ入ったりします。
本当に、そのような威力があったのでしょうか?。
良く葵の威力を語るのに、享保年間浪人が葵の紋服を着けて、取り付け詐欺を働いて死刑にされていることが、挙げられている。
しかし、これでは葵の紋服を着用して死刑に生ったのか、詐欺を働いた為死刑になったのかわからない。
それに、ただの浪人が葵の紋服を持っていたのにも、疑問が残る。
拝領物か、それとも呉服屋に頼んで作ってもらったのか解らない。
幕府は、しばしば葵をみだりに用いることを禁止しているが、禁止していると言うことはいたと言うことですね。
皆さんはどう思われますか?。
[160へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/03(Sun) 08:41:40現代で警察手帳を持っていたら威圧感を覚えるのと同じ事では無いでしょうか?作ろうと思えば手帳も作れると思いますが。
実際は警察手帳って中身見せないといけないらしいですね。だからドラマとかでチラッと見せるのは間違いだとか。
[160へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/05(Tue) 20:34:19藤原秀衛様へ ええ、現在の警察の手帳の件はその通りです。
最近のドラマでも、キチンと開いて中身を見せる事も多くなっています。
葵の件は、勿論天下を治める家の紋所ですから、人々は畏敬したでしょう。
ただ、時代劇で将軍の縁のある物や葵の紋の付いた物を遣って、悪事を働くのに我慢できないだけです。
これは、戦前の天皇に対して行われた事を江戸時代に置き換えて描いているだけではないか?。
戦前の天皇に対しては、江戸時代の将軍に対する取締りが比にならないほど、厳重だった。
江戸時代は逝去した家康を神にしたが、明治政府は生きている天皇を神してしまった。
多分、その差が出た性だと思うが。
[159] 西洋の習慣 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 16:55:05ある本に「信長が教会に行った時いすに座ると、宣教師たちが賞賛した」と書いてありました。信長にしてみれば、座る所があったから座っただけだと思うんですけど。日本は家屋の構造上、室内で立ち話をするということはないので。これがなんで宣教師たちに賞賛されているのでしょう?西洋の習慣を教えてください。
[159へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/03(Sun) 08:42:33その頃には椅子が無く、そんな事など全く新しい事で、それに馴染める信長が凄い。という事でしょう。
[159へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/03/03(Sun) 21:14:21このころの信長は専制君主です。にもかかわらずキリストに向かい、椅子にすわり、(いわば下座)信仰の意をしめしたことに対して賞賛しているのです。信仰にたいする深い理解なくしてはできない行動です。
[159へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/03/22(Fri) 17:08:28レスありがと。kono pc Rkanadeyarinikuinode korede
[158] 武田信玄の死について 投稿者:雪藤洋士 投稿日:2002/02/28(Thu) 14:44:19私は神戸に住んでいて地方ローカル局にサンTVっていうのがあるのですがそこで今歴史ドラマ「織田信長」主演高橋英樹が放映されているのですがそこでは信玄の死は織田方の刺客によって暗殺されていたのですが実際のところはどうなんでしょうか?私は信玄が天下をとるため上洛の際織田と雌雄を決する前に老衰により亡くなったと思っていたのですが、実際はどうだったんでしょうか
[157] 質問よろしいでしょうか? 投稿者:大奥春日局 投稿日:2002/02/26(Tue) 20:28:50@大奥について詳しく知りたいのですが、大奥での地位、大奥で働く人数、どの位いたのでしょかね?
A8代吉宗以降は減ったといいますが、それでもどの位の人数がいたのか、わかりますか??
[157へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/02/26(Tue) 22:42:33>大奥春日局様へ
今、東映チャンネルで放映されている「大奥」によりますと、約千人だそうです。
まぁ、これは娯楽番組だから正確とは言いませんが。
深井雅海氏の「江戸城を読む」によりますと、将軍付きが185人、御台所付きが60人と言う資料が載っています。
ただ、他の人数が乗っていない為、総人数がわかりません。
史実によると、三代家光の死後も大奥の人数や建物が減らされたそうです。
大奥の地位、職制等は、上記の本に詳しいので、図書館等で当ってみてください。
[157へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/27(Wed) 11:09:47夜の時間に、ホントに将軍の子か確認するために何人もの女官が寝ずの観察をしてたぐらいですから増えますよね。吉宗で減らしても、11代・子沢山家斉でまた激増したんでしょうかね?
[157へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:42:31確かに多い時は約千人ほど居たようですね。
給与ですが、11代家斉時代の資料では、上は100石・下は4石位となってます。
[157へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/28(Thu) 12:31:29お話を遮って申し訳ないです、その『大奥』って番組いまやってるんですか?聞いた事あるんですが・・。確かかなり古いんじゃ?はじめて聞きました!
[157へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/28(Thu) 12:33:55そう、家斉時代って一番長かったし、行列も異常なくらい長かったそうですね!
[157へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/02(Sat) 11:38:03>幸治さんへ
『大奥』は、CSの時代劇専門チャンネルで放送されています。
ただ、この『大奥』は二回目で、初回の物とは違う物です。
主な配役は、家康公に若富、秀忠公に錦ちゃんの弟、家光公に沖さまです。
[157へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/03/02(Sat) 11:53:57日光山様。
ご紹介いただきありがとうございました。さっそく調べを入れてみます。
[158へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 15:33:18病死(ほとんど老衰)で亡くなったそうです。
三河侵攻中に信玄は病で倒れ、一ヶ月くらい寺に滞在したそうです。その後、自分の国へ帰っていったそうです。信玄はあからさまに怪しい行動を取っていますが、この時家康は襲っていません。敵が戦えない状態にあるときは襲わないというルールがあったようです。
[158へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/03/02(Sat) 12:44:14武田信玄の死は、病死と鉄砲による傷悪化による二説あるそうです。
鉄砲によるのは、あの有名な黒沢明の「影武者」でも描かれています。
ただ、一般的な説として病死(結核か肺病)が有力です。
ところで、信玄の西上には上洛説と三河制圧の二説ががありますが、本当のところどっちなんでしょう?。
[158へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/03/02(Sat) 23:55:41まぁ、はっきりした病状記録とかも曖昧なんで・・・。それゆえに、狙撃伝説もでているくらいですからね・・。わたくしは、日光山様寄りの意見です。関連して、病死因の異色説に、「吸血虫」による衰弱死、もあるそうです。
[158へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/03(Sun) 08:43:34一般的には結核ですよね。
信玄の西上の目的はやっぱり上洛だと思いますなぁ。
[156] 153の質問に続いて 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/26(Tue) 11:49:15左利きの人にとって右利き用の刃物は左手では、使いにくいと思います。そこで、質問153に続いて、江戸時代に、左利き用の刀は、存在したのでしょうか?左利き用の火縄銃なら、存在しておりますが。
[155] 沖田総司 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/24(Sun) 14:51:51渡辺多恵子さんの「風光る」六巻に、「沖田の結核が発病したのは、池田屋事変ではなく、もっとあとでは?」と書いてありました。
[155へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/28(Thu) 12:36:31池田屋での戦線離脱の原因はやはり結核の発作のよるものだ、という説が有力らしいですよ・・・。
[155へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 15:42:58時間がなくて説明が中途半端になってしまいました・・・。
結核が発病すると一年半以内に亡くなったそうです。ですから、池田屋のとき沖田が血を吐くほど病が進行していたのなら、この後何年も生きてるのはおかしいそうです。
池田屋のときは他の病気だったのでは?たとえば、かぜとかね。史料にも「沖田は病で倒れた」としか書いてないし。
[156へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/02/26(Tue) 20:33:12刀をやりやすいように矯正されたのならば皆右利きで充分という事になり左利きのは要らないのでは?
[156へのレス] 投稿者:宗茂 投稿日:2002/02/27(Wed) 01:31:30浅知恵しかありませんが刀は両刃のはずなので右利きも左利きも関係ないのではないでしょうか
[156へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/02/27(Wed) 07:20:44あり?そうだったのですか(汗。
知りませんでした。
[156へのレス] 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:13:23私も知りませんでした。
[156へのレス] 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:18:51それなら、なぜ包丁は片刃なのでしょうか?
[156へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:30:25まさか、作るのが楽で、コストも安いからとか…。
[156へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/02/27(Wed) 23:29:47包丁は人を殺す物ではないからでは…。
[156へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/02/28(Thu) 03:07:05駄目駄目なレスだったので訂正。
包丁は刀と用途が違うからでは。上から力を入れて切れなくなりますし。
[156へのレス] 投稿者:堀田正俊 投稿日:2002/03/05(Tue) 01:00:55刀は片刃、剣は両刃だと思うのですが。時代劇で「みねうち」があることを考えても・・・
[156へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/03/07(Thu) 17:45:56う〜ん・・・。剣は普通に両刃な気もしますね。
[154] 双子について 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/22(Fri) 16:58:04江戸時代に、双子の兄弟がいる旗本、大名はいたのでしょうか?
[154へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/24(Sun) 14:41:40双子は不吉なので片方殺したという話を聞いたことあるのですが
[154へのレス] 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/26(Tue) 11:42:13なぜ、不吉と考えられたのでしょうか?
[154へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/26(Tue) 14:10:08不吉がなぜかは分かりませんが、双子は長幼の序がつけがたく、相続でもめそうなのを嫌ったという側面もあるんじゃないですかね。
[154へのレス] 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:11:45ありがとうございました。
[154へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 15:19:59双子以上が不吉扱いされたのは、犬や猫などの獣と同じだからだと聞いています。また、家督争いを避けるためというのもあったそうです。双子以上は未熟な状態で生まれる場合が多く、医学が発達していない昔は死亡率が高かったのも原因だと思います。
昔は双子のしくみがわかっていなかったため、不吉扱いする国あり幸運扱いする国ありとばらばらだったそうです。同じ国でも時代によってちがうようです。
それはさておき、この質問自体はおもしろいです。双子の兄弟がいる旗本や大名っていたのか私も知りたいです。
[153] 左利きについて 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/22(Fri) 16:56:44江戸時代に刀を右側にさす左利きの侍は、いたのでしょうか?
[153へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/24(Sun) 14:42:46面白い質問ですね。私も知りたい
[153へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/02/25(Mon) 19:01:45当然、居ると思います
[153へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/02/25(Mon) 19:04:28っと、思いましたが。調べてみた所、日本の歴史史上、刀を右側にさす武将は登場しなかったそうです。やっぱり伝統とかを重んじてるんでしょうか?でも左利きなのに右で戦うのはやっぱり難しいですから、右で抜いて左手に持ち替え、戦っていたのでは無いでしょうか。
[153へのレス] 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/26(Tue) 11:40:17私は左利きですが、剣道の先生から、必ず竹刀を右手を前にして握るように言われました。剣道の竹刀の握りで、左手が前の持ち方がない点を考えると、昔の武士は、必ず、刀を右手で使えるよう、矯正されたのではないでしょうか?
[152] 井伊家について 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/22(Fri) 11:24:08井伊直政以下、彦根藩井伊家は四天王の他に比べて優遇されていると思うのですが、なぜでしょう?
直政も本多忠勝や榊原康政に比べて一番若いのに知行は多い。直孝も家康の臨終の際「何かあれば井伊直孝と藤堂高虎を先鋒に」と言われ、家光の信頼も厚く、家綱の初期には保科正之とともに元老扱い。直澄以降はみんな大老。彦根藩は一度も転封なし。転封も減知も多く老中どまりの本多や榊原家との差は大きいと思うんですけど。
[152へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/02/22(Fri) 15:57:48榊原は大老に推されたけど、断ったみたいですよ。酒井は信康の件で根に持たれて冷遇されたし。私は、本多については、戦以外の功績を知らないけれど……。
でも、「何かあれば彦根と桑名(藤堂)を先鋒に。」と言われたにもかかわらず、井伊も藤堂も明治維新のとき、真っ先に裏切ったような……。
[152へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/22(Fri) 17:15:57榊原康政の大老推薦は本によって書いてあったり、なかったりで私は採用しませんでした。「大老」も実際、その職名がいつ誰で始まったかバラバラですよね。榊原もあれば、土井利勝、「元老」と書いた井伊直孝、保科正之、酒井忠清と。酒井忠清は確実にその職名みたいですけど。
酒井は忠次家は冷遇で、忠清につながる雅楽頭家は厚遇ですもんね。しかし、本多忠勝は幕府開闢後すぐ死にますしね。孫(?)の忠刻は千姫の旦那に選ばれるからまだマシかなと。姫路藩・榊原家って何台かあとの「これ岑?」が狂って改易を受けませんでしたっけ?
安濃津藩・藤堂家は外様で厚遇された割には、新政府軍にすぐ従いましたよね。さすが高虎の子孫。そう思うと、奥羽列藩同盟の盟主たる仙台藩・伊達家は立派。
[152へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/02/26(Tue) 23:00:13井伊家の藩祖直政は、家康唯一の寵童だったみたいです。
これは、司馬遼太郎氏の家康を描いた「覇王の家」に書かれていたもので、真実かどうか知りません。
その為かどうか知りませんが、家康が甲斐治めた時に武田家浪人をほとんどすべて召抱えましたが、それを直政に与え赤揃えが出来たそうです。
また、井伊家はもともと遠江の名門で八介のひとつでした。
豪族の出身だった為、優遇されたと言うこともあるかも知りませんが。
[152へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/27(Wed) 11:06:27井伊直政は信長の森蘭丸、信玄の高坂昌信と同じく男色の相手だったという記述は結構見ますね。井伊家は嫌いじゃないんですけど、本多忠勝と榊原康政が好きなんで、井伊は優遇だなと思いました。
[151] 教えてください 投稿者:小岩盛親 投稿日:2002/02/19(Tue) 14:48:47はじめまして、小岩といいます。
ここのHPの方は詳しそうなので教えてください。
徳川家康の嫡男徳川信康と次男結城秀康の年齢差は
15歳〜16歳くらいあるみたいですが、
本当にこの間に男子は生まれていないのですか?
家康は子沢山で有名ですから、
一人くらい居てもおかしくないと思うんです。
教えてください。
[151へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/20(Wed) 09:27:25すごく精緻な研究書などに出ているのなら知りませんが、普通の本には書いてないのでいないと思います。5男や7、8男の夭折は書いてありますし。
[151へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/20(Wed) 09:33:43でも結城秀康は少しかわいそうですよね。顔のことも含めて父親に嫌われ、秀吉に養子に出されたはいいが、3男秀忠とは違って結城家にまた養子に出される。長幼の序が崩され後継者になれず。関ヶ原後も越前へと大幅加増だが遠国・雪国。そら嫡男・松平忠直も狂うっちゅう話です。でも、一旦改易され、松平忠昌で再興した越前・福井藩が幕末で支えるんですから不思議なもんです。
[151へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/20(Wed) 15:28:46今川からの独立後、10何年は、家康ジリ貧だった訳だし実際、ソレどころじゃなかったのかも・・。
[151へのレス] 投稿者:小岩盛親 投稿日:2002/02/22(Fri) 09:25:16ありがとうございました。よくわかりました。
またいろいろ教えてください。
[151へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/02/22(Fri) 16:00:01信康(1559年生)と秀康(1574年生)の間ですか? 隠し子として土井利勝(1572年生)がいたという噂も…。
[151へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/22(Fri) 17:03:08そうそう土井利勝は出自がはっきりしてなく、顔も似てて隠し子みたいな話ありましたね。だから、どんどん出世した、みたいな。
[151へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/24(Sun) 14:39:43次男と三男の間には、女の子が一人いたそうです。
家康の子供は全部で16人くらいです。
参考までに、信長は20人くらい子供を残したそうです。
[151へのレス] 投稿者:細川昭元 投稿日:2002/02/28(Thu) 11:49:40え〜、初めまして。
家康の子では、大坂夏陣にて豊家方として討死した、
小笠原権之丞っていう変り種も居ます。生年は不詳だし、
かなり怪しいけど…。
[151へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 15:50:40女の子が一人いたのは、長女と次男の間でした。次男と三男の間は・・・忘れました・・・。
[151へのレス] 投稿者:ちなみ 投稿日:2002/02/28(Thu) 15:54:55もう一度質問をよく見てみたら、聞いてるのは長男と次男の間ですね。長女と次女がいました。男子はいません。
[150] 質問があります。そのA 投稿者:三橋飛騨守 投稿日:2002/02/19(Tue) 04:09:57加賀百万石と俗にいわれますが、本当に前田家の領地の実収は、100万石あったのでしょうか?とても100万石あるとは思えないのですが。
[150へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/19(Tue) 09:08:36詳しい実高は覚えていませんが、120万石ぐらいだったような気が。農業技術の進歩と領内総検地で増えた藩は多かったはず。伊達政宗の仙台藩も約65万石でのスタートでしたが、元禄年間の実高は100万石超。琉球を併合し、表高約77万石の薩摩・鹿児島藩も100万石超。萩藩・毛利家も実高は表高の倍ぐらいだったと記憶しています。中には家格を上げるため、実高を申告して1ランク上の大名になった藩主もいるとか。
[150へのレス] 投稿者:赤松円心 投稿日:2002/02/19(Tue) 17:07:43姫路藩も10万石ですが、実質15万石といわれています。赤穂藩も製塩によって実際の石高よりも多くの収入があったといわれています。
石高のごまかしといえば、沼田藩が有名ですね・・・。
[150へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/20(Wed) 15:24:26これって米の取高だけですよね?
公儀の手が入って測り直しってのは聞きませんが、
実際、在りましたか?
どなたか御教示を・・・。
[150へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/21(Thu) 11:20:35米の話です。新田開発や検地、租税徴収率引き上げで石高は増えたケースは多いんです。上野・沼田藩は寛文2年に藩主・真田信利が領内検地を断行。3万石の実高が一気に14万石超に増えたのは悪名高い拡大検地です。その後、延宝8・9年の大飢饉と大雨、藩主の贅沢三昧で財政は窮乏。そんななか江戸両国橋再建築の木材供出を真田が請け負い、さらに農民に負担かけたものの間に合わず、幕府から改易処分を受けました。元禄16年の本多正永入部まで幕領となりますが、その際に代官が再検地を行い、6万5000石まで引き下げる「お助け検地」と呼ばれたそうです。
[150へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/21(Thu) 11:39:29増えた実高が表高になった例では薩摩・鹿児島藩が。慶長14年に琉球を併合し、寛永11年の書状では薩摩65万5000石に琉球諸島が加わり、総高72万8000石を知行として幕府に認められていることが確認できるそうです。また、28万石の御三家・水戸藩も尾張、和歌山藩への劣等感からか寛永18年に総検地を実施、36万余の実高を得て幕府に願い出て、元禄14年には表高35万石が認められたそうです。
[150へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/21(Thu) 23:45:19知らんかったー。いや、賢くなったようです。
御教示ありがとうございます。
[149] マサムネ 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/02/17(Sun) 05:35:33皆さんはじめまして。
さて皆さんに尋ねたいことがあります。、伊達政宗は「生まれてくるのが遅かったから、天下を取れなかった!」みたいなことを思ったそうですが、もし、政宗があと20年早く生まれたならば、天下は取れたでしょうか?
[149へのレス] 投稿者:向 伯徳 投稿日:2002/02/17(Sun) 15:53:51結論から言えば、無理だろうと思います。
そもそも「政宗が早く生まれていたら」という仮定だけでは、論じるには不十分でしょう。さらに仮定が必要です。すなわち、
@政宗が晴宗の子として生まれる
A伊達家の歴代当主(少なくとも稙宗以降)が一代ずつ早く生まれる
の二つのうち、どちらかです。
@であれば、政宗は輝宗が施してくれたような英才教育を受けられません。片倉小十郎や伊達成実より一世代前になってしまい、彼らの助けなしに少年・青年期を過ごすことになります。政宗にいくら野望があっても、大乱後の疲弊した伊達家を率い、最盛期の相馬や芦名、南部と戦わねばなりません。同世代の最上義光とはいいライバルになるかもしれませんが、もしそうなったら信玄と謙信のような関係になるかも。
Aの場合、天文の大乱が起こるかどうか。起きたら天下どころではなくなってしまうし、起きなくても股肱の臣を捜すのに苦労しそうです。
どちらにせよ、政宗の逸材ぶりは生来の素質だけではなく輝宗の英才教育に拠るところも大きいと思いますので、教育が出来る環境でなければ、何年早く生まれても無理ではないかと。
B伊達家臣団も全て20年早く生まれていたら
これならば狙えそうな気もします。
[149へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/17(Sun) 23:17:21早く生まれてれば・・よりも秀吉の明智光秀との、もしくは柴田勝家まで含めた抗争が続き、中央でなかなかNo.1が出てこないこと。乱世が1600年過ぎても続いてて、150万石級の大名が全国に分立し、互いが睨み合う状態の方が、機会に恵まれるんじゃないでしょうか。
[149へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/18(Mon) 12:29:21義輝殿のおっしゃるように信長死後の混乱状態の継続が一番可能性があるでしょうね。ただ、伊達政宗が秀吉や勝家や家康などに本当に勝てるかは何とも言えませんね。大坂の陣でも結構統率を乱しているし、関ヶ原時の奥州でも上杉景勝の攻勢にそれなりに苦戦している。中央で天下をとる大名のパートナーとして100−150万石に落ち着くかもしれません。日本全国を統治するなり、謀略を張り巡らすという点ではどうしても家康や秀吉には及ばないのかなと思うんです。ファンの人いたらごめんなさい。
[149へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/18(Mon) 22:24:05伊達と最上の関係に絞って、私は考えてみます。やはりつもるところ、最上義光が鍵を握ったのではないかと思います。また、生まれるのが早かったら、政宗と義光のに関係は変わって来るだろうと思いますので。勢力機略ともに充分であったとしても、最上といかに渡り合うかが、問題です。ことに、政宗に勝ちを譲ったとしても、すんなりと従う最上ではないだろうし、もし、天下がみえたとしても、信長と光秀のように、邪魔されて潰れるという注意もはらわなければならないでしょう。あとは、中央での対抗勢力に耐えられる体力が伊達家にあるのかは、切り離して考えるべきでしょう。
[149へのレス] 投稿者:赤松円心 投稿日:2002/02/18(Mon) 23:22:03天下を取るのは難しいと思います。しかし、史実よりも早く生まれていたら、よりその才能を生かす機会に恵まれたと思います。実際、政宗は時代背景によって才能を十分に生かせなかったような気がします。
また、奥州という地理的条件から考えて、戦略はある程度有利に展開できるかもしれません。奥州を平らげてしまったら、背後を突かれる心配がありませんから。
[149へのレス] 投稿者:上杉三郎景虎 投稿日:2002/02/22(Fri) 16:02:46なるほど……。
みなさんどうもありがとうございました。
[148] 家康の征夷大将軍について 投稿者:古樹 投稿日:2002/02/15(Fri) 22:52:02徳川家康が秀吉と異なって征夷大将軍を望んだ理由を教えてください。
[148へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/16(Sat) 00:12:00秀吉も望んだのですが、源氏でもなければ平氏でもない、百姓出身ゆえに断念し、代わりに源平藤橘に続く第五の姓、豊臣の姓を朝廷より賜り、人臣の最高の位である関白になったのです。徳川は源氏の流れらしいので征夷大将軍になったのです。関白は人臣の最高位で、征夷大将軍は武家の棟梁という位置付けです。
[148へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/02/16(Sat) 05:52:50関白豊臣家に権威上対抗する必要性が有ったんでしょうね。そうでなくとも、武士を従わせ軍事力を保つには重要な地位ですから。
[148へのレス] 投稿者:堀田正俊 投稿日:2002/02/16(Sat) 11:07:16秀吉が征夷大将軍になろうとしたときまだ征夷大将軍(足利義昭)が生きていたから。養子にしてくれと頼んだが断られ、しかたなく藤原氏の養子に、んでその後豊臣賜性。結論 秀吉なりたくてもなれなかった。けど関白でいいや。家康関白に対抗する地位の確保。
[148へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/02/16(Sat) 19:05:24聞いた事によりますと、実は徳川も源氏の流れではないそうです。
家系図は適当に修正して無理矢理源氏という事にしたとか・・・。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6081/
[148へのレス] 投稿者:小一郎 投稿日:2002/02/16(Sat) 23:59:15私もそれは聞いたことがあります。林通勝が本当は秀貞とか織田信行は信勝とか、家系図ってどの程度まで信用していいかわかりません。
[148へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/02/17(Sun) 00:46:11まぁ時代が時代ですからね。
唯一信用出来るとしたら肖像画ぐらいでしょうか?(^^;
あ、でも武田信玄や源頼朝は実は肖像画が違うとか言ってましたね・・・。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6081/
[148へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/18(Mon) 12:20:05開闢した幕府の安定を見て、諸大名の確実な屈服を確認するまでは関白・豊臣家と正面切るのは避ける意図もあったと思います。秀吉・秀次と世襲された関白職を簒奪するのは世間の評判も落ちる。ただ、皆様がおっしゃるように源氏と家系を修正した家康には関白は元々興味がなかったでしょうし、秀吉も関白より征夷大将軍を望んでいた。それに、家康は源頼朝を尊敬していたと何かの本に書いてあったような。
[148へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/18(Mon) 22:26:48え??頼朝も信玄も肖像画違う??のですか??、し、知らなかった、、、(無知)・・・・。
[148へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/18(Mon) 23:39:43日光東照宮、御神輿が3台あって真ん中が家康で両脇が秀吉、そして頼朝を祭ってあるって、修学旅行のガイドさんに説明されたの覚えてます。そこでも、頼朝を尊敬してた様だという説明だった。源氏の将軍でありながら尊氏は無かったですよ。彼の場合も教科書で見かけた肖像画が、今では執事の高師直だろうって言われてますね。
[148へのレス] 投稿者:小一郎 投稿日:2002/02/18(Mon) 23:47:14信玄はもっとやせていたらしいです(そういう肖像画が残っているみたいで)。よく知られている信玄の肖像画は家紋が違っているとかなんとかで別の人物を描いたものと考えられているとのこと。じゃあ一体誰なのだろう・・・?
[148へのレス] 投稿者:九郎 投稿日:2002/02/19(Tue) 01:09:01能登畠山家の人じゃありませんでしたっけ?<信玄の肖像画>名前は忘れた・・・
[148へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/19(Tue) 09:12:05将軍宣下の時、「源氏長者」っていうのもセット。名も「徳川秀忠」などではなく「源秀忠」。ま、こんなんは形式上のことですけど。
[148へのレス] 投稿者:永蓮寺初二 投稿日:2002/02/20(Wed) 01:38:14あの貫禄のある信玄像は能登守護、畠山義続ではないかと言われています。まず、問題の肖像画を描いた長谷川等伯は能登の出身で信玄を描く機会があったとは考えがたく(ちなみに等伯が上京した翌年に信玄は亡くなっている)、さらに、太刀と小刀に武田菱ではなく畠山氏の家紋の二引両紋が描かれているためです。
で、何故義続像が信玄像になったかというと武田氏とつながりのあった高野山の成慶院が武田の血筋を引く家康の五男信吉に接近してたまたま奉納されていた義続像を武田家との縁から信玄像に仕立て上げたからだという説があるそうです。
[148へのレス] 投稿者:小一郎 投稿日:2002/02/20(Wed) 22:29:23ふむふむ畠山義続だったのか。さすが江戸幕府、詳しい方がそろっている。勉強になります。
[148へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/21(Thu) 23:49:54長谷川等伯だったんだ・・。知らんかった、有名な絵なのに。教科書も不親切でイカン。太字で覚えさせるんだったら、描いた絵と結びつけて教えてくれりゃイイのに。
[148へのレス] 投稿者:羽柴秀勝 投稿日:2002/02/22(Fri) 01:56:24どうやら、源頼朝像→実は足利直義。平重盛像→実は足利尊氏。だという説もあるようです。聖徳太子に関しては肖像画どころか存在自体、怪しいそうです。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6081/
[148へのレス] 投稿者:幸治 投稿日:2002/02/22(Fri) 13:50:23ほほう・・・・!全く知らなかった!!!!というか、そのまま信じさせられていました、では、写真と人名を結び付けさせる問題は愚問と言うものですな!
[148へのレス] 投稿者:采女佑 投稿日:2002/02/22(Fri) 16:23:00羽柴殿が仰ったモノとは別ですが足利尊氏が高師直だったというのもありますね。
[147] 秀長がもし長生きしていたら。 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/12(Tue) 22:04:13秀吉が先に死んでいたらどうだっただろうか。まず朝鮮の役はなかったし、利休切腹も秀次切腹もなかった。関が原もなかっただろうか。聚楽第や伏見城もなかったと思う。五大老・五奉行ができたのは秀長が死んでからでしたっけ?それにしても、秀吉も秀長も忙しすぎて子供ができなかったのが豊臣の悲運よ。
[147へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/13(Wed) 00:05:50余り考えたこと無かった。私個人としては大和大納言には、信望があるから豊家の家中では結束が高まってると思います。後継は秀次ですかね。ジジイ先に死んでりゃ御乱行も無いでしょ。後は彼をどれだけ支えきれるか。うまくいかなきゃ、秀長が死んでも“関ヶ原”になります。どうでしょうか?
[147へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/13(Wed) 13:24:20私も考えたことがなかった。秀長は大軍率いる力もあったし、豊臣政権は安定度を増したと思いますが、関ヶ原はやっぱり起こったと思います。秀長と石田三成などとの関係は知りませんから分かりませんが。ずれますけど、本能寺の変の際に二条城から信忠が生還してたらどうなったでしょうね?彼は嫡男だし、武田掃討戦の指揮もがんばったと思いますし、次男以下たくさんの凡庸な息子たちよりは大丈夫だと思うんですけど。
[147へのレス] 投稿者:上杉景勝 投稿日:2002/02/13(Wed) 17:23:28朝鮮出兵や利休切腹は、やり方は違っても目的は同じの策が取られたと思いますね。それなりに必要性が有りましたから。
[147へのレス] 投稿者:光源院義輝 投稿日:2002/02/14(Thu) 01:30:22二条城からの信忠生還ですか・・。信忠が無事なら岐阜まで逃げ帰りますよね、きっと。そこから光秀討伐戦をするのに誰が信忠を援けるか、が焦点だと思います。越前から柴田勢が出て来られる見込みもあります。秀吉との東西からの挟撃戦で勝利を収め、信忠の新しい織田軍団が形成されるでしょうか。東側の信忠勢に手柄がいきそうなので、家中では一老 柴田、二老 羽柴なんて枠組みも決められると思います。2人仲が悪いまま信忠が天下平定、それで家臣の世代交替の中に消えてしまうんじゃないでしょうか?最後は織田幕府ではなくても、何らかの中央集権国家みたいなもんになるとは思います。勿論、その途中での信忠病死は無しですが。
[147へのレス] 投稿者:小一郎 投稿日:2002/02/17(Sun) 00:33:32秀長は秀吉死亡時から秀頼成人(一応元服していますが、ここでは当主としてふさわしい年齢のことです)までのいわゆる「つなぎの区間」に豊臣家の事実上のトップとして政務を十分にこなせる人物であると思います。仮に朝鮮出兵が行われたとしても、彼ならおそらく武功派と吏僚派の対立を最小限に収めることができるのではないでしょうか。彼は人望もあるし、昔から調停役には慣れていたのではないかと思います。秀吉は信長の所にはべってばかりだったそうですから。しかし関ヶ原は必ず起こるとは思います。ですが家康は秀長存命中には戦いはふっかけないでしょう。史実では家康は「豊臣家の家老」として上杉討伐に出陣して、豊臣対豊臣というおかしな戦いをつくりだすことによって武功派を味方にすることに成功しています。しかし、相手の総大将が秀長ではそうはいきません。なんてったって彼は秀吉の弟です。福島らが味方につくとは思えません。秀長が死んだとしても、時期が遅すぎれば秀頼が成人してしまうし・・・。私の結論を言いますと秀長存命中は家康は天下はとれない!ということです。天下をとるためには、秀長が利家と同時期かそれ以前に死ななければならないと思います。私はHNの通り、秀長好きのため、かなりかたよった意見になってしまいました。すみません。
[147へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/17(Sun) 03:34:09いえいえ、そのとおりだと思います。
[146] 武田信玄 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/12(Tue) 15:48:59ここへ来て日が浅いもので、何度か議題になってたらすいません。
三方が原で徳川軍を破った武田信玄が死なず、そのまま上洛戦を続けていたらどうなっていたでしょうか? 織田信長対武田信玄の行方です。個人的には織田の勝利かな、と思うんですけど。
[146へのレス] 投稿者:日光山 投稿日:2002/02/12(Tue) 20:54:33そうですねぇ、興味深い議題です。
問題になるのは、上洛戦を続けた場合上杉と北条がどう動くかでしょう。
織田には、当時浅井、朝倉、将軍義昭、本願寺とたくさん敵は多いし、武田の上洛を聞けば彼らは奮い立つだろうし、信玄の名は轟いていました。
三方が原で、佐久間信盛が戦わず逃げたように(これも三方が原の敗因の一つです)もし信長と信玄が戦った場合、この時点では
信玄の勝ちじゃないかと思います。
信玄が伝えられるように、謙信と並んですごい武将だった場合ですが。
ただ、個人的には織田に勝ってほしいです。
そうしないと、家康公の天下が来ないですから。
[146へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/12(Tue) 21:52:11なぜ浜松城を攻め落とさなかったかというと、兵力の消耗を避けて一日でも早く京都に行きたかったからだと思う。理由:信玄の病状が思わしくない。農民兵は田植えまでに帰国しないとその年以降収穫できないし、年貢経済の甲斐はそうするしかなかった。それと補給地が遠い。敵国に取り残される危険があり、兵力の温存を図った。それが後々命取りになった。浜松城を攻め落としていれば遠江、三河までは武田軍の領地にできた可能性大。それこそ最前線をのばし、勝頼の代にはもっと楽に進軍できたはずだ。武田と織田の違いは貨幣経済と年貢経済の違い、それと百姓兵と金で雇った専業兵との違いがあり、たとえ岐阜城まで追い込まれていても兵糧・弾薬の補給が武田軍は思うようにいかず、(信長なら堺の町の鉄砲や火薬を買い占めるだろうし)京都までたどりついても武田軍は帰国しなければならず、いずれ部隊再編した織田軍が勝っていたでしょう。しかし!徳川がつぶされていたら織田は東の壁を失うことになり、朝倉と浅井滅亡はもっと先になっていたでしょう。
[146へのレス] 投稿者:山中鹿之助 投稿日:2002/02/13(Wed) 00:12:29信玄が向こう10年生きたとすると、上洛作戦を開始した時点で信玄の勝ちだと思いました。まず足利義昭が半信長同盟を煽っていたのが大きいでしょう。信玄が上洛の途につき、信長とことを構えていたら、いくら上洛に興味のない朝倉のヨシカゲさんも動いただろうし・・・。
当時の戦だと兵士の士気というのは大変重要だったと思います(まだ兵農分離が完全でなかった為)また、噂の効果も絶大でしょう(信用できる情報メディアは無し)音に聞こえた武田騎馬隊(実際は騎馬率が高いとはいえ、そこまで馬ばかりではなかったようです)が来たと聞いたら、織田の雇われ兵は戦う気さえ起きなかったのではないでしょうか。また士気が低い兵隊を率いて、逆転の秘策を信長が考えつくのは難しい、以上のような事から、織田家は滅ぼされて、信玄は上洛したのではないかと思います。というようにほぼ日光山殿と同じ意見ですな(苦笑)書いてから気が付きました。噂、名声、威厳などが現在の我々が考えていた以上に大衆心理を動かしたと思いますよ。
[146へのレス] 投稿者:山中鹿之助 投稿日:2002/02/13(Wed) 00:15:14逆転の秘策を思いつかないのでは?というのに補足をつけますと、信長は経済力を背景に兵数で勝つ勝ち方だと思うんですよ。尾張兵が弱かったというのもあるんですけれども・・。信玄が来た場合、兵士を集めるのにも苦労するのではないでしょうか、という前提で、少ない兵士では勝てないという意味です。
[146へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/13(Wed) 01:45:23もしも尾張に突入していたらどこで迎え撃つだろうか。清洲は捨てるとして。また、家康は二股城とか占領された城のために動けないものとします。
[146へのレス] 投稿者:山中鹿之助 投稿日:2002/02/13(Wed) 10:20:07ふむ、難しいですね。合理的に考えると、尾張は捨てて岐阜城に篭るとか考えちゃうのですが(ゲームのやりすぎか?!)尾張という土地にたいして織田家的にこだわりを持ってると思うんですよ。信長がこだわりを持ってなくても、尾張国内に知行のある武将が領地を捨てるとは思えない。土地に対する観念は強いと思います。そのため、武田方に離反する武将が多く出てしまう。そういった意味でも、尾張突入前、家康が健在なうちに三河国内で戦うのが信長にとって有利だと思うんですが。
もし突入されたら・・・戦わないと思います(戦えない)川辺衆はすぐに裏切りそう(笑)
[146へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/13(Wed) 12:49:26補給線はたしかに信玄のアキレス腱となったでしょうね。信長は他の大名よりも、朝廷使って和睦し、軍を切り返す動きって速いですよね。その辺りに期待して信長勝ちと書きました。高い動員力を活かして岐阜城に主力を集め、やはり尾張決戦かなと。奇跡技として上杉謙信を動かしたいんですが、あのころまだ謀叛の余波で越後は混乱してたような気が・・・。でも、信濃侵攻の動きだけでも。個人的にはそれなりの確率で尾張崩れになったと思うんですね。朝倉は動かないという判断です。浅井は分かりません。三方が原に佐久間信盛、平手汎秀の3000しか援軍を送らなかったのも、余裕がないのもありますが、尾張決戦に備えて、そして勝つつもりだったと好意的に解釈してます。
[146へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/13(Wed) 21:56:57私ならこうするかな。武田軍がくる以前に金ヶ崎の撤退がありましたが、敗北にもかかわらずわずか50日で織田軍は部隊を再編し、堺に鉄砲も注文して失った戦備の補充もしています。武田はたしかに怖いが、春までしのげば田植えのために国に戻ることがわかっているため、まず尾張は素通りさせる。しかしその間も細かい城は落としてまわるだろうから時間を稼げる。そして美濃に入った時点で清洲・岐阜から挟み撃ちにする。あまり京都に近いところで迎え撃つと浅井勢に挟み撃ちにされる危険があり、三好・松永らもうるさい。美濃墨俣あたりで全軍で迎え撃つ。今川2万を迎えても謀反や内通がでなかった織田軍が人数の少ない武田を前に逃げ出すとは思えない。しかも当時とは比べ物にならないくらい戦力は増強している。ただし、まわりに敵が増えた。負けたら岐阜城にこもって篭城する。
[146へのレス] 投稿者:山中鹿之助 投稿日:2002/02/13(Wed) 23:34:42確かに今川が攻めてきたときの状況はおもしろいですね。織田の将士は寝返ったりしなかったのでしょうか?詳しく知りたいところです。
[146へのレス] 投稿者:三好義継 投稿日:2002/02/14(Thu) 13:52:23対今川戦は面白いですよね。尾張統一まで弟含め、肉親同士でもあれだけまとまらなかった織田方が圧倒的不利な状況下でまとまって勝つんですからね。寝返りはどうでしょうね。中心メンバーはなかったと思うんですけど。今川義元は余裕で叩きつぶせると考えて、尾張にそれほど勧誘をかけなかったとか。でも、人間て大きな危機を前にすると不思議と一致団結することもあるし、そういうことなんですかねえ。
[146へのレス] 投稿者:唐沢 投稿日:2002/02/14(Thu) 20:26:11本音でいえば、信玄は京都で死なせてやりたかった。大河ドラマを見ると特に思う。
[146へのレス] 投稿者:九郎 投稿日:2002/02/15(Fri) 17:24:54今川方に内通者が出なかったのは山口親子の末路を見ていたからではないですか?
[146へのレス] 投稿者:九郎 投稿日:2002/02/16(Sat) 05:08:08×今川方に
○今川方への
[146へのレス] 投稿者:永蓮寺初二 投稿日:2002/02/20(Wed) 02:06:58織田の勝利というより、武田は織田を滅ぼすことはできなかったでしょう。もう既に言われていますが、織田軍が武田軍に合戦で敗北したとしても、信長は朝廷工作で、正親町天皇による停戦命令を発令させただろうと思われるからです。
武田は領土拡張(尾張、三河、遠江、美濃の一部くらいか?)はできたかもしれませんが、停戦令が出たことにより、武田は織田に対して戦をしかけることができなくなり(仮にしかけたら、朝廷の意に反したということで上杉や北条にも攻撃される可能性が高い)、しばらくの間、膠着状態が続いただろうと思います。
信玄が生きていれば、信長が死ぬことはなかったにせよ、その天下統一事業は大幅に遅れて、それ以降の幕藩体制の成立ももっと先のことになっていたでしょう。
あ、でも信玄生きてたら徳川滅んでたかも・・・(^_^;)
まぁ、家康でなくても、覇権を握った誰かが幕藩体制を創出していただろうけど・・・。
[146へのレス] 投稿者:永蓮寺初二 投稿日:2002/02/20(Wed) 02:13:24ifドラマなら、京に信虎・信玄・勝頼の3人で武田菱と風林火山の旗を立てるというのも見たいですなぁ・・・。
[146へのレス] 投稿者:永蓮寺初二 投稿日:2002/02/20(Wed) 02:24:50最後に個人的観測
信玄が死なない→信長は西国平定どころではなく武田対策に忙殺される→当然のことながら播磨侵攻どころではない→小寺領安泰(笑)
となると宇喜多なども毛利になびいた可能性大ですな。毛利勢力がかなり拡大したかも・・・・。
となると勝久と鹿之助はどこいくんだろう・・・?大友かな?でも瀬戸内の移動は困難なはず・・・四国経由で九州には行けたのか・・・?
・・・・うーむ、信玄が死ななかったら、だけでここまで考えてしまいますね、私は。
[145] 郷土 投稿者:赤松円心 投稿日:2002/02/08(Fri) 23:27:55 討論とは少し趣旨がずれますが、大目に見てください。
やはり、自分生まれ育った郷土には愛着があり、自分の郷土の歴史について調べるのも、大切なことだと思います。身近にある史跡が、案外有名な歴史上人物につながっていたりして、いろいろな発見があります。
私の場合、播磨に住んでいるので、赤松氏についていろいろ調べています。赤松円心というハンドルネームは、南北朝時代に赤松氏の力を強大にした当主の名前からとりました。 戦国時代では、赤松氏は後期赤松氏に当たり、いまいちぱっとしませんが、嘉吉の乱で滅ぼされるまでの前期赤松氏は、幕府の有力大名でしたし、後期赤松氏も、文化面においては、京都の文化を移植したりして、にぎやかな時期がありました。
まだまだ勉強不足ですが、中央の歴史と地元の歴史を並行して学んでいきたいと考えています。
[145へのレス] 投稿者:藤原秀衡 投稿日:2002/02/09(Sat) 10:34:04ですねぇ、赤松家といえば昔はかなりの勢力を誇っていたそうですね。戦国時代では衰退しちゃってますが山名と同じく。
[145へのレス] 投稿者:永蓮寺初二 投稿日:2002/02/19(Tue) 02:04:54四職家(赤松、一色、山名、京極)は、いずれも応仁の乱以降パッとしませんでしたけど、か細くそれなりにうまく生き残っていたと思いますよ。特に山名なんか明治まで生き延びてますからね。
もっとも、「日本の六分の一を支配する」とまで言われた勢力が、6700石にまで衰退してしまいましたが、戦乱の世の中でうまくソフトランディングできたんじゃないでしょうか?
それもこれもあかねちゃんのおかげかな?猿のおじちゃん可愛い女の子が大好きだからなぁ(笑