第三十六回(高橋紹運)

光源院義輝

 島津軍の猛攻による岩屋城玉砕の話が有名。天文17年(1548)出生。
 父は、戸次鑑連(立花道雪)、臼杵越中守鑑続と3人で、
『豊後三老』と称せられる大友の柱石。大友家の祖 能直の子 泰弘に始まる
庶流の吉弘家、名は左近太夫鑑理。
あきなお、あきただ、あきまさ読み方が書物によりバラバラ。
でも、祖父が石見守氏直
(天文3年4月、対大内戦の豊後 勢場ヶ原の戦いに参陣し負傷、落命か。)
ならあきなおが正しいかも。
主に軍事面で活躍した人らしいが、他に詳しい事は嫡男 鎮信ともども知りません。
 で、弥七郎。元服の際、宗麟(義鎮)の諱を賜り『鎮理』と名乗る。
主君の諱と父の字を合わせ持つのは、兄 鎮信
(永禄4年8月、毛利氏からの豊前 門司城奪回戦に15000を率いて出陣した
吉弘加兵衛尉のことかも。また、朝鮮出兵や関ヶ原大戦の際、
大友義統に従軍し名を揚げた嘉兵衛統幸の父と思われる。)
より期待が高かったのか、兄が庶子だったのかはよく判らない。
また、兄が鎮理という書物もあるらしいから余計判らない。
 鎮種と名乗るのは、高橋家の後嗣となってから。
(紹運となる時期までは、わかりませんでした。)
高橋の前主 三河守鑑種が毛利元就の誘いに掛かって大友に背いた。
(コレ、宗麟が悪い。大友家臣の一万田親実という人、鑑実とは別人でイイと思う。
が、奥さんはメチャきれいで彼女欲しさに宗麟が親実を殺害させた話がある。
三河守は親実の実弟だそうで、それによる離反ともといわれる。)
これを戸次鑑連らに攻められ、三河守は降伏(永録10年7月)。
豊前 小倉預かりの身となり、家も断絶になるところだった。
そこで高橋の家中から後嗣に迎えられ、
代々の当主が『種』の字を使ってる事もあって鎮種と改名。
後嗣に望まれるのは、前主の血縁者ってのが一般。
だいたい野心家の重臣がボンクラを担ごうという場合か、
家中が優れた人物の下 結束しようというどちらか。
血縁者でなければ、相当の人物だって噂になってると思ってイイでしょう。
高橋家の岩屋と宝満の2つの城は、場所が場所だけに主家 大友家としては
ボンクラに預けさせる訳にはいきませんでした。
鎮理もこの頃には兄と共に父に従っていくつもの合戦に参加し、
すでに頭角をあらわしてたと思われます。
また、大友家中には父 鑑理の他、戸次鑑連ら手本となる将士が多々おり、
彼等を見習って自身を磨いたのは容易に伺えます。
あと、おそらく母が高橋氏だったのでは。
文献が見当たらず、その辺は勉強の余地アリ。
高橋家の当主になったのが永録10年(1567)なら、鎮種20歳。
九州の動乱が一段と大規模で活発となる永禄から元亀年間に、
筑前支配の要 立花山城と豊後をつなぐ岩屋、宝満両城の守りを任され、
新たな柱石として活躍し始める。
 宗麟が大友の主となった天文19年から数々の離反者を出し、
そのたびに討伐してきた大友家中。
それでも暴君 宗麟を見限ることなく立花道雪(永禄5年5月に義鎮、
剃髪し宗麟となる。その後、鑑連も倣って剃髪、
『麟伯』の法号を主君より賜り『麟伯軒道雪』となったそうである。
また、立花になったのは大友庶流の筑前 立花鑑載が、これも元就に誘われ謀叛。
永禄11年に豊後3老らに討たれて滅亡となったところ、
宗麟が鑑連に跡目を継がせたもの。)と共に支え続けた。
 その活躍も父同様、戦場のものがほとんどで、
残念ながら政策面での話は聞きません。
豊後本国、または立花山城の方分(かたわけ 大友家独自の役職のこと。
支配他国1国全域を統括する守護代のようなもの)から指示があるので、
従って統治するだけなのでしょう。
だが、家臣の扱いに関してはウマく、
みんな 鎮種のために懸命に働くばかりでした。
 その家臣の扱い方話。鎮種を高橋家の後嗣に迎える際、
尽力した有力家臣の北原鎮久が天正8年(1580)仇敵 秋月種実と内通。
だが、鎮種は鎮久を誅し謀叛を未然に防いだ。そして、子の進士兵衛を呼び出し、
全てを打ち明けた。謀叛の際は一族共々、滅ぼす主もいる中で鎮種は、
そのまま進士兵衛に跡目を継がせた。
その後、進士兵衛は謀叛継続中と秋月家を騙して宝満城へ軍勢を誘い出すのに成功。
秋月勢を壊滅に追いやることができた。
 もう1つ。島津軍来襲による岩屋城籠城戦の直前のこと。
敵の手中にある二男 統増を取り戻し、後衛の宝満城に籠城させようというもの。
配下の杉山山城という者を召し出し“山城殿”と呼び掛けたうえで、
困難ではあるが失敗なら統増と刺し違えて死んでもらいたい旨を含め、
このことを依頼した。
配下とはいえ家柄も古く、高橋家や大友家よりも家格が高いことに敬意を表して
そう呼ばせてもらったと。
意気に感じた杉山は、見事に宝満城へ統増を連れ戻り役目を果たした。
 父 鑑理のことは言うに及ばず、道雪のことだって
師とも父とも仰いでいたことでしょう。
望まれた大器の嫡男 統虎を、快く道雪の婿養嗣子に差し出したのも
「厳しさを持ち合わせながらも、配下への心遣いも怠らない」
そんな道雪を見倣い続けてきた紹運が、精一杯応えたかったからこそと思います。
統虎にも短刀を与え、厳しく言い含めました。
立花の、道雪殿の跡を継いだからには、
例え敵、味方になろうとも迷わずこの首を獲りに来ること。
躊躇って討ち漏らした際には立花山城には戻らず、この短刀で腹を切るようにと。
 高橋弥七郎鎮種入道紹運、立花道雪に勝るとも劣らぬ
勇将としての評価をうけるこの人。
天正16年(1586)39歳の若さで死なすには、ものすごく惜しい強者でした。
「勇将の下に弱卒無し」とは、紹運の軍勢のためにあるようなもの。
熾烈を極めた岩屋城籠城戦、13日間みな必死で数倍の島津勢と戦い続けたこと。
疲労困憊の配下が島津勢のなぶり殺しに会う前に、
終わりを促す切腹をして見せたこと。
そして残存配下は、1人残らず紹運を追って殉死したのは潔すぎました。
紹運の持つ大将の器と魅力のほどを伺える話です。
この人を知るのに、もっと資料が欲しいですね。

島津 忠恒

高橋紹運が一族郎党763人とともに玉砕を遂げたのは
1586年のことであった。
高橋紹運が死に場所とした壮絶な籠城戦は
島津家にとっても秀吉にとっても九州平定にとって重要な一戦であった。
高橋紹運は本名を鎮種といい大友氏重臣の吉弘左近大夫鑑理の次男として
1548年に生まれた。岩屋城、宝満城を預かる高橋氏が
毛利氏と通じたため断絶されるところを老臣たちの願いで、
紹運が高橋氏を継いだのである。高橋紹運の武士道精神は
様々な逸話で知られている。
紹運の妻は斎藤兵部少輔鎮実の妹であり早くから約束された婚儀であった。
しかし、戦で忙しい紹運のために結婚が遅くなった。
その間に鎮実の妹は痘瘡を患ったのである。
鎮実はこの婚儀を反故にしようとしたが、
紹運は代々武名の誉高い斎藤家の女性だからと結婚を希望した。
この二人の間の子どもこそ鎮西屈指の勇将立花宗茂である。
この実子宗茂を立花道雪に養子に出すとき、
酒を酌み交わしながら「もはや親子ではない。
道雪殿とわしが敵味方となれば、その方は立花勢の先鋒となり
間違いなくわしを討ち取れ。未練卑怯なる振る舞いをして
道雪殿に義絶されてもこの岩屋城に戻ってくるな。
その場で自害して果てよ」と。そして、そのときのために
手ずから一振りの短刀を与えたという。
島津家の猛威の前に、大友宗麟は羽柴秀吉を頼った。
このとき紹運は秀吉の御家人ともなっており、
主家大友家へのさらなる忠勤という意味でも
岩屋、宝満、立花山城の防衛ラインで島津家の北上を食い止めるべく
岩屋城に入城した。島津家はこの岩屋城を四方から攻め、
文字通り屍の山を築いて紹運を本曲輪まで追い詰め、
城主以下将兵全員の自刀によって幕を閉じた。
この城攻めに半月を費やし多くの将兵失ったことは
島津家にはおおきな痛手となった。
この玉砕によって旗色の悪かった大友軍の士気を鼓舞する結果となった。
この岩屋城の紹運の死は、道雪死後は一人で衰退していく主家大友家の
屋台骨をひとり支え続けた勇将にふさわしい最期だった。

可児才蔵

大友氏の吉弘鑑理の次男。実名は鎮理のち鎮種、入道して主膳入道紹運と名乗る。

大友氏に叛いた高橋鑑種が豊前に追放された後、元亀元年に高橋氏を継ぎ、
併せて筑前御笠郡の岩屋・寶満両城の城督に就任した。

天正6年大友氏が日向高城にて島津軍に大敗を喫した後、
筑前に於いても天正7年に秋月種實、原田信種、宗像氏貞等による
大友氏に対する反乱が起こり、盟友である立花道雪と共に鎮圧にあたった。
天正12年には道雪と共に龍造寺隆信によって侵略された筑後への遠征軍を組織し、
豊後本国の大友勢と共同行動。しかし翌年9月、
戸次道雪の病没により大友氏の筑後奪回作戦は頓挫、紹運筑前に撤退、
筑後出兵中に筑紫広門が紹運の次男統増の守る寶満城を奇襲で奪うが、
広門が大友氏に帰参する為に娘と統増との婚姻を持ちかけたので、
婿引出物として統増夫妻が寶満城を守ることとなり、紹運は岩屋城に入った。
天正14年、島津勢が筑後を制圧して筑前に迫り、降伏を勧めてきたが、
降伏を拒絶。一ヶ月以上島津勢の包囲が続いたが、7月27日早晩、
島津直属軍を前面に立てて一斉に攻めかかった。夕刻に岩屋城は落城、
紹運は自害、城兵たちも玉砕した。




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